日常を揺るがすことがあった時、

何かに群がりいつも普通に使っている必要なものが無くなったりします。


必要だと思い、なくなる前に買っておこうと思う人。

冷静な人はそれを見て醜いと思う。

 


 

僕もそんな群がる人を見てちょっと批判をしていました。あのブラックアウトの時も。

 

その時にそんな自分に少し問いかけてみて、その思考の要素や構造はどうなっているんだろうと掘り返してみました。

 

 



そんな行動をする人とそうでない人との違いはなんなんだろう?

◾︎情報の質や量

◾︎その人の気質

◾︎そのときの状況

きっと様々です。

 

人間は理性のある動物で物事をきちんと論理的に考えられる動物なので他の動物とは違います。

 


でも根本はきっと同じなのです。

動物の本能としての生きること、死へのリスクを減らすことはどんな動物でも同じ。

 

 

ここで何かに群がる行動というのを客観的に見てみると、普段私たちも同じような行動を知らず知らずに取っているかもしれないのです。

例えば流行のモノが欲しくて並んだり、群がったり、買い占めて、転売したり。(私は転売はしませんが…)

 


自分の好きなモノを手に入れる時も似たようなものもあるかもしれません。それに多数が群がるか少数しか群がらないかの違いで。

 

でもね平時はいいけど、こんな時に同じとこをする人はどうなのか?

きっとそんなことなのだと思う。


 

でもさ、そもそも人間ってそんなもんなんじゃないかなぁって。もちろん僕も含めて。

 

人間って理性があるようで所詮は動物なです。


 

まだ暴動にならないだけマシかもしれません。

 

 

では群がる集団の思考の反対にいる冷静な僕ら?

それを非難する僕やその人達の思考はどん風なんでしょう?

 

それを良しとしないと「SNS」などで叫ぶけど、その人々が群がるところでそれを声高々に叫ぶ事が出来るだろうか?

 

群がる人とは私は違う、理性のある僕たちと群がる人との差別化をして、高尚な人のように振ったり、そんな風に見られたくて、今の私のようにSNSで発信しているのかもしれません。

 

はたまた僕たちは群がる行動を不快に思いその鬱憤を言葉にして吐き出しストレスを解消しているのかもしれません。

 

 

日本人は村社会で寄り添いあって生きてきたので、一人で抜け駆けする人は村八分になる。

昔の人からそんな話しを聞いた事があります。

 

ある意味子供のいじめ見たいにも思えますが、逆にそれは大人の行動をみて子供がとっている、引き継がれている行動なのかもしれません。

 



個人を犠牲にして村のみんなのために、そうやっで寄り添わなければ死んでしまう可能性があったからそうしていたのでしょう。

 

多様性が叫ばれている今、個人が尊重されなけれはいけない時代だけれど、村八分的な思考は何かしら僕らの中に残っているように思います。

 


多様性が少しずつ僕らの周りに訪れている時代、僕は群がる人も多様性のひとつとして受け入れられるのでしょぅか?

 

まぁどちらも人間らしいと思うことなのかなぁ

こうやって言っている僕もどちらとも変わらない同じなのですね。