わかってはいたが、選手が必死に練習しているのを横目に歩くことしかできない自分。それをどう消化し、昇華したらよいのか。目標を失った自分を目の当たりにして愕然とする。

 いろんな経験を経て成長してきた、強くなってきた。そんなことはない。そう思っていたことが少しでもあるとすれば、大した驕りだ。

 そのことを身をもって感じさせる日々。「はやく本番が終わって解放されたい。」とまで思った。

 でも、それも自分。

自分自身の本当の姿と向き合うと決めたからには、目をそらさずにしっかりと見て、心に刻まなければならない。そうした思いだけが自分を支えてくれていると実感する日々を過ごした。

 

 今でも、本番、選手の付き添いとして、本来は予定されていた区間とは異なる中継所にいる自分を思い起こす。中継所の賑わい、沿道のたくさんのファン、さまざまな大学ののぼり、そうした世界とは少し離れたところにいる気がする。お祭りで賑わうメインストリートから外れた路地裏にいるような気持ち。

 もちろんチームの状況や走る選手たちにエールは送る。でも正直言って他人事のようにも感じる。

 最近のテレビ中継では、走れなかった選手が給水係にまわって選手を励ます。中継所で走ってくる前区間の選手を受け止める。それが「自分の分まで」というシナリオにまとめられ、時に感動を呼ぶ。

 しかし、私が見るのは走れなかった選手の苦しみ、自分の場合は「走れない自分の分まで」なんて思ったことはない。選手が自分の成果を十分に発揮してくれればいい。人の分まで背負うことはない。そのほうがこちらも気が楽だし、「自分の分」はまだ自分の中にあると思っているし。

 

 最終区10区の選手がゴールに近づく、選手はみなゴールで肩を組みながらその瞬間を待つ。

 自分は、その中には入らなかった。誰も気づかないとは思うが、ゴールが見えないところで身を固めていた。それが正直な気持ち。

 そうした自分をしっかりと味わい、心に刻む。このことが将来社会に出てからどう思えるか。そこをしっかりと見届けなくては。。。と思っていた。

 そして僕の箱根駅伝は終わった。

 

~つづく~