志賀島の金印の真相。

 

「月刊 日本」2005年1月号 掲載。

落合先生の寄稿の一部。

 

-----

この当時、まだわが金印の真相を知らなかった私は、ある人物に教えを乞うた。すでに故人となったこの人物(S)は龍谷大学出身で、某短期大学の教員をしており、「ほんまの仕事は宗教関係の、まあ一種の公安ですわ」と語ったが、彼の極めて深遠な知識と、しばしば呉れる驚嘆すべき情報で、私は京都の宗教中枢の奥深さを覚らされた。毎日のように電話でやりとりし、近来の出来事の裏面を語り合っていたが、高芙蓉の印譜疑惑を話したところ、「ちょっと大学の図書館で調べてきますわ」と。言って電話を切ったが、二日もせずに回答が来た。

「あの金印はもともと黒田藩が天明のころ作ったもんですわ。あの時分はちょうど考古学ブームで、あちこちでこんな真似をしたんでしょう。目的は、将来、黒田の殿さんが征夷大将軍になる時に備えたもんやそうです。博多から昔の日本国王の印が出たのは、黒田の殿さんが将軍になるべき因縁が顕れたもんや、と主張したいからですや。そやけど一個やおまへんぜ。四つくらい作ったらしいわ」

Sが大学図書館で見た資料によると、わが金印の作者は高芙蓉で、印章学では当時の最高権威であったから、黒田藩は大枚を払って制作を頼んだ。あるいは藤貞幹にも関わって貰ったのかも知れぬ。だとすると四月二日模刻の件が無理なく説明できる。ともあれ、高芙蓉は全知識を駆使し、印文はじめ材質・形状・デザイン・寸法などを定めたが、当時のこととて、引証すべき実物や資料が今日よりも遥かに少なかった。尤も、その分だけ事がバレずに済むわけであるから安心して、大胆に偽造を実行した。漢印に例を見なかった薬研彫りにしたのは、芙蓉の知識の限界が露呈したものだろう。印文も、「漢倭奴王印」とすべきものを「漢委奴国王」としたため、考えられないほどの無駄な考証を後世の学者に課したが、却ってその分だけ金印サークルの仕事を増やし、利益をもたらしたことになる。出来上がった四個(?)の金印を黒田藩に納めた高芙蓉に、水戸藩から声がかかった。

「噂を聞いて、こりゃ怪しいと思うたんですや。水戸は歴史研究の中心で、歴史は自分とこの最大の使命やから、怪しいから調べよう、と決めたんですな。そこで高芙蓉を儒者として雇うと、ゆっくり泥を吐かそうとしたそうですわ。まさか本藩の藩儒とはでけんから、支藩の宍戸一万石に命じて雇わせたらしいんや。江戸詰めですわ。芙蓉は喜んで江戸に向かいますわ。これを察知した黒田藩から追手が掛かり、黒田の忍者に江戸でやられたんですわ。口止めですや」

芙蓉の死因は、『大日本人名辞書』によると傷寒とある。傷寒は、広義には急性症状一般を謂い、狭義には重症の感冒で、緊急凝結による切迫症状のことである。要するに、病名は分らぬが症状は明白で、傷寒としたのは、今日死因として多用する心不全のごとき用法で、毒殺と見てよい。

-----

 

落合先生が、雑誌「月刊 日本」に寄稿していた時の一節です。

「月刊 日本」で、三ヶ月連続で金印について書かれていますが、それを読むと、金印が偽物というのがより理解できますし、日本の史学界がお粗末で、学究より生活優先になっていることも見えてきます。

 

この時点で、先生はS氏と伏字にされていますが、その後彼の事は数回著書で実名でも出てきます。

 

+++++

説明動画も制作してみました。

こちらもよかったら観てみてください。

音が出ますので、ご注意を。

 

 

---------------------------------------------

< 落合史観研究会 アメブロ版 >

https://ameblo.jp/ochiaishikanlab

 

< 落合史観研究会 Facebook版 >

https://www.facebook.com/Ochiaishikankenkyukai/

 

< 落合史観Q&A >

https://www.facebook.com/groups/275868713077846/