今日まで初釜続きで、遅くなりましが、覚えていることなどを書いておこうと思います。
今年もお家元の初釜のご招待があり、東京道場に行ってきました。石川の大地震があり、特に金沢には縁が深く、取りやめようかとも思っていたそうですが、チャリティーの意味も含めて開催したそうです。確かに、四代目仙叟、大樋焼、輪島塗など密接でした。私も今参加できた喜びで、ありがたく寄付させて頂きました。
利休時代は戦国時代で、いつ死ぬか分からない時に、お茶が流行った訳ですから、取りやめなくてよかったと思います。
大宗匠様は今年は出ないと言われていたそうですが、最終日にもお出まし下さり、大きなお声でご挨拶下さり、100歳にもかかわらず、活躍なさっているお姿を身近に拝見すると、頑張らなければといけないと、刺激を頂きました。
今年は龍年。争い傷つけあうのではなく、競うのであって、自らを高めることが必要とお話がありました。
又、勅題の和、利休の四則の最初の言葉が和であり、一歩近づくことが大事と言われました。
お道具は後日ご紹介があると思いますが、
韓国の楓の木で作られた茶杓など、楽しい物でした。毎年初釜はこれでと言われている藤四郎の耳付きの茶入、秀吉の陣羽織からの仕覆を今年も拝見できました。
坐忘斎宗匠のお席は、点茶盤でした。以前はずっと初日でしたので、100人ぐらいいたように思いますが、今年は最終日だったからか、35名ぐらいで勿体無いぐらいでした。
私は一番良い席?で、まん真ん中。対面してお点前してくださっているようで、緊張しました。
花びら餅は、大樋つまり奈良業躰先生にお運び頂きました。多くの業躰先生にお運び頂き、ありがたいことです。
多分12センチぐらいあったように思います。以前の方がもっと中身が多くて、ドロっとしていたかもしれません。
このところ胃が悪く、濃茶は頂けない状態でした。断りするか、一口飲み頂いて、残すのも許されるか、伺いましたら、業躰先生は、「せっかくいらしたのだから、飲む真似だけでも、一口だけでも良いとおっしゃり、お茶碗返す時に胃が悪いのでと、一言言えば良い」と言われ、安心しました。
抹茶は自宅初点で用意しておいた一保堂の雲門の昔で、同じでした。
多分4グラム以上使っているのでは?という感じでした。宗匠はお茶碗によって濃さを変えて、少し薄めで引けるような濃さと、おっしゃいましたが、両隣もお茶碗に沢山残っていて、勿体無く、薄茶が点てられるぐらいでした。私は凄く残してしまいましたが、でも、お茶碗は暖かかったので、水屋がギリギリまで温めていたのではと思います。
温めるというと、薄茶席ではお饅頭がでて、こちらも暖かかったです。やはり水屋が大変ですね。
話は点前に戻り、坐忘斎点茶盤での濃茶の気がついたことは
風炉なので、風炉のお点前
つまり炉の季節でも、お湯に水入れる。
最後建水下げて
茶入と茶碗同時に下げて、仕覆は懐中。水次で水入れて、建水持ってきて?最後の礼でした。
次客、三客には抹茶の入ったお茶碗で対応されていました。
薄茶は御園棚で若宗匠。冗談言いながら、和やかなお席でした。
水指の蓋が出ていたので、蓋は正面に置いていました。坐忘斎奥様は半東として私の一番近くに座られていました。その背筋はまっすぐに伸びていて、もしかしたら、これが皇室の基準なのかもしれないと、姿勢の悪い私はまたまた反省で、今年は姿勢に気をつけようと、まとまた刺激を頂きました。
お客は椅子席で楽だったのですが、やはりいぜんのように畳に座るお茶が懐かしいです。
あっという間で1時間半かかっていないと思います。
くじ引きは宗匠の色紙。35名ぐらいでお一人当たりなので、確率は高かったのですが、残念ながら当たりませんでした。以前古帛紗が当たっただけでもありがたいことですね。
飾ってあったはらみ鯛は生の鯛で、お腹に何か入っているのが見えたので、このことをを質問してみました。同じ鯛を入れたものは見たことなく、違う魚をお腹に入れていて、京都では当たり前のことだそうです。
胃が悪かったので、お弁当で助かりました。
今後もこのかたちで行われるかもしれませんが、コロナ前のお嬢様や、ご親戚の方が華やかで、お酒を代わり代わりついで下さり、凄くもてなして下さったのが、なんとも嬉しく、懐かしいです。
個人的にも胃が悪かったですが、何とか行けましたし、家族の体調もギリギリ良く、行けたことが何よりも、ありがたい初釜でした。