顕正会では、勧誘が全てでした。
私は幹部として、誓願120を月単位でこなさなければならない立場でした。
120。
それは「救う人数」ではありません。
評価の数字でした。
私は区員にこう言っていました。
「なぜ出来ないの?」
「なぜやらないの?」
「功徳になるのに」
「先生のお役に立ちたくないの?」
今思えば、完全に追い詰める言葉です。
でも当時の私は、本気で顕正会を正しいと思っていました。
新しい入信者は“可能性”ではなく“数字”だった
新しく入った子を見た時、
私は心のどこかで常に計算をしていました。
「この子は何人いけるか」
「誓願にどこまで近付けるか」
救いではありません。
戦力です。
顕正会は人を、人として見なくなります。
人は「勧誘数」になります。
私はその構造を支えていました。
◇家族の反対を“魔”と断言していた◇
家族が反対する区員に、私は言いました。
「それは魔だよ」
「試されているだけ」
「罪障消滅、宿命転換」
「家族より信心」
そして私は、ほぼ毎日連絡を入れるように総班長、班長に指示をしました。
「監視」と言ってもいい。
家族の言葉を遮断し、
顕正会の言葉で上書きさせる。
あれは救いではありません。
囲い込みでした。
◇家族の中で孤立していく姿を見ていた◇
何人もいました。
家族と口をきかなくなる区員
家で居場所がなくなる区員
泣きながら電話してくる区員
でも私は言いました。
「大悪起これば大善来たるだよ」
「乗り越えたら大きいよ」
私は、その孤立を止めませんでした。
なぜなら、
孤立した子は顕正会に依存するからです。
そして依存した子は、
脱会しません。
私はその仕組みを、無意識に支えていました。
◇警察を呼ばれても「罪障消滅」と言い切った◇
トラブルになっても、
私は動じませんでした。
「罪障消滅だから」
「正しいことをしている」
「何も間違っていない」
今振り返ると、恐ろしい状態です。
でも当時は、本気でした。
なぜそこまで思い込めたのか。
それは、
疑い=慢心
迷い=魔
ためらい=信心不足
と、徹底的に教え込まれていたからです。
良心より、組織が上でした。
◇私は冷酷だったのか◇
私は構造の中にいました。
恐怖。
評価。
誓願。
数字。
先生。
魔。
これが組み合わさると、
人は自分の感覚を失います。
心を“閉じるように訓練”されていました。
◇今は反省という言葉では足りない◇
私は、多くの区員を追い込みました。
家族を壊した子もいます。
その事実は消えません。
私は加害側でした。
だからこそ言います。
顕正会は、人を壊す仕組みです。
善意を使って。
正義を使って。
功徳という言葉を使って。
罰という言葉を使って。
罪障という言葉を使って。
もし今、顕正会の中で誰かを追い込んでいる人がいるなら。
あなたもまた、構造の中にいます。
そして、もし追い込まれている人がいるなら。
あなたは壊されかけているだけです。
私は、そこにいました。
私は加害者でもあり、被害者でもあります。
そして、その両方を引き受けた上で書いています。
少し詳しく書きます。
勧誘はなぜ人の心を失わせるのか(顕正会の構造)
顕正会では、勧誘がすべてでした。
勧誘できる人は評価される。
勧誘できない人は責められる。
「なぜ出来ないのか」
「なぜやらないのか」
「功徳になるのに」
「先生のお役に立ちたくないのか」
できない理由は認められません。
疲れているから。
相手が嫌がっているから。
関係が壊れそうだから。
そういう理由は、通用しません。
なぜなら顕正会では、
結果が正義だからです。
◇勧誘が「善」になる瞬間◇
折伏は、本来は「勧める」行為のはずです。
でも顕正会では、違います。
相手が嫌がっても続ける。
何時間でも帰さない。
警察を呼ばれても正しいと思う。
なぜここまで出来るのか。
それは顕正会が、
「勧誘=絶対善」にしているからです。
善だと思っている行為は、
人を傷つけても正当化されます。
◇罪障消滅という免罪符◇
顕正会では、警察沙汰になっても
「罪障消滅」と言います。
これはどういう構造か。
本来なら
「やりすぎたかもしれない」
「相手に迷惑をかけたかもしれない」
という内省が生まれます。
でも顕正会は、それを逆転させます。
問題が起きた
→ 罪障消滅
→ 正しい行為だった証拠
つまり、
反省を封じる仕組みです。
これが一番危険です。
◇心が壊れていくプロセス◇
最初はみんな、普通の人です。
相手が嫌がれば、
心が痛む。
関係が壊れそうなら、
不安になる。
でも顕正会は、
その自然な感情を否定します。
「それは魔」
「信心が足りない」
「情に流されるな」
こうして人は、
自分の感覚を疑い始めます。
そしてある日、
相手が泣いても
怒っても
拒絶しても
心が動かなくなります。
これは冷酷になったのではありません。
自分の感情を切り離す訓練をされた結果です。
◇勧誘は「人格の再教育」◇
顕正会の勧誘は、布教ではありません。
人格の再教育です。
・断られても止まらない
・嫌がられても続ける
・批判されても自分が正しいと思う
・トラブルを功徳になると解釈する
これは普通の倫理観とは逆です。
でも集団の中にいると、
それが“普通”になります。
集団が正義になると、
個人の良心は弱まります。
◇なぜここまで出来てしまうのか◇
答えはシンプルです。
勧誘が「救い」ではなく
「評価基準」だからです。
数字。
誓願。
成果。
勧誘できない=信心不足。
そう刷り込まれると、
人は自分を守るために勧誘します。
信仰のためではありません。
自分が責められないためにやる。
ここまで来ると、
もう心ではなく、恐怖で動いています。
あの時、自分はおかしかったのではないか。
そんなふうに思う人もいるかもしれません。
でも違います。
心を否定され続けたのです。
良心を「魔」と呼ばれ、
違和感を「慢心」と呼ばれ、
優しさを「弱さ」と呼ばれた。
だから感情を閉じただけです。
それは壊れたのではなく、
生き延びるための適応。
◇最後に◇
もしあなたが、
相手を泣かせたことがある。
怒らせたことがある。
関係を壊したことがある。
そして今、罪悪感があるなら。
心を閉じさせられていただけだと私は思います。
あなたの中の感覚は、間違っていない。
私はそう思います。
これ以上あなたの人生が顕正会に奪われませぬように。