紫苑

紫苑

平成3年〜平成16年まで顕正会員でした。
第9区長、女子部幹事までやりました。
元幹部としてカルトの構造を分解していきます。

顕正会では、勧誘が全てでした。

私は幹部として、誓願120を月単位でこなさなければならない立場でした。

120。

それは「救う人数」ではありません。

評価の数字でした。

私は区員にこう言っていました。

「なぜ出来ないの?」
「なぜやらないの?」
「功徳になるのに」
「先生のお役に立ちたくないの?」

今思えば、完全に追い詰める言葉です。

でも当時の私は、本気で顕正会を正しいと思っていました。

新しい入信者は“可能性”ではなく“数字”だった
新しく入った子を見た時、
私は心のどこかで常に計算をしていました。

「この子は何人いけるか」
「誓願にどこまで近付けるか」
救いではありません。
戦力です。

顕正会は人を、人として見なくなります。

人は「勧誘数」になります。

私はその構造を支えていました。


◇家族の反対を“魔”と断言していた◇

家族が反対する区員に、私は言いました。

「それは魔だよ」
「試されているだけ」
「罪障消滅、宿命転換」
「家族より信心」

そして私は、ほぼ毎日連絡を入れるように総班長、班長に指示をしました。

「監視」と言ってもいい。

家族の言葉を遮断し、
顕正会の言葉で上書きさせる。

あれは救いではありません。

囲い込みでした。


◇家族の中で孤立していく姿を見ていた◇

何人もいました。

家族と口をきかなくなる区員
家で居場所がなくなる区員
泣きながら電話してくる区員

でも私は言いました。

「大悪起これば大善来たるだよ」
「乗り越えたら大きいよ」

私は、その孤立を止めませんでした。

なぜなら、
孤立した子は顕正会に依存するからです。

そして依存した子は、
脱会しません。

私はその仕組みを、無意識に支えていました。


◇警察を呼ばれても「罪障消滅」と言い切った◇

トラブルになっても、
私は動じませんでした。

「罪障消滅だから」
「正しいことをしている」
「何も間違っていない」

今振り返ると、恐ろしい状態です。

でも当時は、本気でした。

なぜそこまで思い込めたのか。

それは、

疑い=慢心
迷い=魔
ためらい=信心不足

と、徹底的に教え込まれていたからです。

良心より、組織が上でした。



◇私は冷酷だったのか◇

私は構造の中にいました。

恐怖。
評価。
誓願。
数字。
先生。
魔。

これが組み合わさると、
人は自分の感覚を失います。
心を“閉じるように訓練”されていました。


◇今は反省という言葉では足りない◇

私は、多くの区員を追い込みました。

家族を壊した子もいます。

その事実は消えません。

私は加害側でした。

だからこそ言います。

顕正会は、人を壊す仕組みです。

善意を使って。
正義を使って。
功徳という言葉を使って。
罰という言葉を使って。
罪障という言葉を使って。

もし今、顕正会の中で誰かを追い込んでいる人がいるなら。

あなたもまた、構造の中にいます。

そして、もし追い込まれている人がいるなら。

あなたは壊されかけているだけです。

私は、そこにいました。

私は加害者でもあり、被害者でもあります。 
そして、その両方を引き受けた上で書いています。

少し詳しく書きます。

勧誘はなぜ人の心を失わせるのか(顕正会の構造)

顕正会では、勧誘がすべてでした。

勧誘できる人は評価される。
勧誘できない人は責められる。

「なぜ出来ないのか」
「なぜやらないのか」
「功徳になるのに」
「先生のお役に立ちたくないのか」

できない理由は認められません。

疲れているから。
相手が嫌がっているから。
関係が壊れそうだから。

そういう理由は、通用しません。

なぜなら顕正会では、
結果が正義だからです。


◇勧誘が「善」になる瞬間◇

折伏は、本来は「勧める」行為のはずです。

でも顕正会では、違います。

相手が嫌がっても続ける。
何時間でも帰さない。
警察を呼ばれても正しいと思う。

なぜここまで出来るのか。

それは顕正会が、
「勧誘=絶対善」にしているからです。

善だと思っている行為は、
人を傷つけても正当化されます。

◇罪障消滅という免罪符◇

顕正会では、警察沙汰になっても
「罪障消滅」と言います。

これはどういう構造か。

本来なら
「やりすぎたかもしれない」
「相手に迷惑をかけたかもしれない」

という内省が生まれます。

でも顕正会は、それを逆転させます。

問題が起きた
→ 罪障消滅
→ 正しい行為だった証拠

つまり、
反省を封じる仕組みです。

これが一番危険です。



◇心が壊れていくプロセス◇

最初はみんな、普通の人です。

相手が嫌がれば、
心が痛む。

関係が壊れそうなら、
不安になる。

でも顕正会は、
その自然な感情を否定します。

「それは魔」
「信心が足りない」
「情に流されるな」

こうして人は、
自分の感覚を疑い始めます。

そしてある日、

相手が泣いても
怒っても
拒絶しても

心が動かなくなります。

これは冷酷になったのではありません。

自分の感情を切り離す訓練をされた結果です。


◇勧誘は「人格の再教育」◇

顕正会の勧誘は、布教ではありません。

人格の再教育です。

・断られても止まらない
・嫌がられても続ける
・批判されても自分が正しいと思う
・トラブルを功徳になると解釈する

これは普通の倫理観とは逆です。

でも集団の中にいると、
それが“普通”になります。

集団が正義になると、
個人の良心は弱まります。


◇なぜここまで出来てしまうのか◇

答えはシンプルです。

勧誘が「救い」ではなく
「評価基準」だからです。

数字。
誓願。
成果。
勧誘できない=信心不足。

そう刷り込まれると、
人は自分を守るために勧誘します。

信仰のためではありません。

自分が責められないためにやる。

ここまで来ると、
もう心ではなく、恐怖で動いています。

あの時、自分はおかしかったのではないか。

そんなふうに思う人もいるかもしれません。

でも違います。
心を否定され続けたのです。

良心を「魔」と呼ばれ、
違和感を「慢心」と呼ばれ、
優しさを「弱さ」と呼ばれた。

だから感情を閉じただけです。

それは壊れたのではなく、
生き延びるための適応。



◇最後に◇

もしあなたが、

相手を泣かせたことがある。
怒らせたことがある。
関係を壊したことがある。

そして今、罪悪感があるなら。

心を閉じさせられていただけだと私は思います。
あなたの中の感覚は、間違っていない。
私はそう思います。

これ以上あなたの人生が顕正会に奪われませぬように。