いつまでも時間を浪費していても仕方がない。
今、私が感じていることを書き出してみる。
1)中島みゆきが支持されるわけは、彼女がいかにも日本的だから、だと思う。
岡林信康というフォークの神様とよばれた人がいた。
彼は一時期、自分の歌がわからなくなり、大スランプに陥ってしまったそうである。
そして、最後に自分は自分のなかにある日本的なものを表現していこうと考えたそうだ。
どこかのテレビのドキュメンタリーでやっていた。
絵画でも歌でも煎じ詰めれば自己表現だ。自分の体の中にあるリズムにひとは反応する。
外来の音楽が受け入られるのは、完成された様式を持っている場合だ。
それに微調整を加えながら、そのひとのオリジナリティーをだしていくのではないだろうか?
中島みゆきは、ビートルズには影響されていない、あまりビートルズは聞かなかった、と書いている
が、私のような音楽の素人がみても、ビートルズの嵐はすさまじかった。
影響なしではいられなかっただろう。
みゆきさんの中国風の音楽を聴いたときも、ジョージハリスンのインドの音楽がふと浮かんだ。
海外のアーチストと競演して、音楽性を高めようとするのも、まさにビートルズの成長過程ににている
のではないだろうか?
一方、日本的なものの影響も強く感じる。
1)中島みゆきの雨はいつも悲しい。
2)中島みゆきの歌には、空や海に色が無い。他の歌手の提供曲以外には「青空」がでてこない。
涙色などという色が出てきたりする。
3)紅いという色は「死の匂いのする寂しさ」を伴って使われる。
赤いという色は別の意味である。
4)舟にも特別の「孤独をともなう寂しさ」の意味をつけている。
他にも同じ意味をつけようと努力しながら、ありふれた言葉を定義しながら使っている。
俳句の季語を連想させる使い方である。
言葉にこだわるのも日本的な短詩型の伝統だろう。
そして、彼女のすばらしさは、他の歌手がしたように、過去の詩人の言葉を借用するようなありふれた
ことをしなかたことだろう。
「狼になりたい」の日常的な情景の描写は、まさに「写生」の精神ではないだろうか?
国文出身の彼女の強い意志を感じる。
そして、いきづまった彼女は、外来語を取り入れる試みを始めたのではなかったか。
これが、ご乱心の時代ではないだろうか?
1)失恋や悲しみ
2)人生を高らかにうたう
3)すこしこっけいな歌
4)旅の歌
これは演歌の得意分野だったのではないか?
今の演歌界はすばらしい歌い手や作詞家や作曲家を失ってしまった。
その人達のファンに地上の星は受けたのだろう。
彼女が一貫してこだわっているのは、自分の中にある日本的なものの表現の完成ではないのか?
だから、同じテーマで何度でも歌を読む。
井上陽水はイメージの世界に逃げたように私には思える。
井上陽水といえば、人気の絶頂だったころに、「日本酒を飲みながら、都はるみを聞く」
と書いてあったことがあり、そのミスマッチに私はびっくりした。
彼には彼の追いかける音楽が早くから見えていたんだろうと思う。
若いひとに聞くと今の歌は歌詞の意味よりはイメージを大切にする歌らしい。
歌詞の意味はそれほど大事でなく、言葉のひびきがもたらすイメージが大切な歌もあるらしい。
中島みゆきのすばらしさは、自分の中にあるものを詞で表現しようと苦しみつづけていることでは
ないだろうか?
「囁く雨」という曲のバックに雨の音を入れたのは、「おまえの家」以来である。
やっと、自分がやってきたものに、信頼がおけて、今の気持ちを素直に書きたいという風な感じを
最近の歌から感じる。以前にあったことを遊びの精神で繰り返す余裕を感じる。
そんなことを私は思う。
中島みゆきが変わったというひとがいるが、私には一貫して同じに聞こえる。
また、逃げずに苦しんでいて立派だと思う。
変でしょうか?
素人の戯言かも知れませんが、ここがおかしいと思えばご指摘下さい。
今、私が感じていることを書き出してみる。
1)中島みゆきが支持されるわけは、彼女がいかにも日本的だから、だと思う。
岡林信康というフォークの神様とよばれた人がいた。
彼は一時期、自分の歌がわからなくなり、大スランプに陥ってしまったそうである。
そして、最後に自分は自分のなかにある日本的なものを表現していこうと考えたそうだ。
どこかのテレビのドキュメンタリーでやっていた。
絵画でも歌でも煎じ詰めれば自己表現だ。自分の体の中にあるリズムにひとは反応する。
外来の音楽が受け入られるのは、完成された様式を持っている場合だ。
それに微調整を加えながら、そのひとのオリジナリティーをだしていくのではないだろうか?
中島みゆきは、ビートルズには影響されていない、あまりビートルズは聞かなかった、と書いている
が、私のような音楽の素人がみても、ビートルズの嵐はすさまじかった。
影響なしではいられなかっただろう。
みゆきさんの中国風の音楽を聴いたときも、ジョージハリスンのインドの音楽がふと浮かんだ。
海外のアーチストと競演して、音楽性を高めようとするのも、まさにビートルズの成長過程ににている
のではないだろうか?
一方、日本的なものの影響も強く感じる。
1)中島みゆきの雨はいつも悲しい。
2)中島みゆきの歌には、空や海に色が無い。他の歌手の提供曲以外には「青空」がでてこない。
涙色などという色が出てきたりする。
3)紅いという色は「死の匂いのする寂しさ」を伴って使われる。
赤いという色は別の意味である。
4)舟にも特別の「孤独をともなう寂しさ」の意味をつけている。
他にも同じ意味をつけようと努力しながら、ありふれた言葉を定義しながら使っている。
俳句の季語を連想させる使い方である。
言葉にこだわるのも日本的な短詩型の伝統だろう。
そして、彼女のすばらしさは、他の歌手がしたように、過去の詩人の言葉を借用するようなありふれた
ことをしなかたことだろう。
「狼になりたい」の日常的な情景の描写は、まさに「写生」の精神ではないだろうか?
国文出身の彼女の強い意志を感じる。
そして、いきづまった彼女は、外来語を取り入れる試みを始めたのではなかったか。
これが、ご乱心の時代ではないだろうか?
1)失恋や悲しみ
2)人生を高らかにうたう
3)すこしこっけいな歌
4)旅の歌
これは演歌の得意分野だったのではないか?
今の演歌界はすばらしい歌い手や作詞家や作曲家を失ってしまった。
その人達のファンに地上の星は受けたのだろう。
彼女が一貫してこだわっているのは、自分の中にある日本的なものの表現の完成ではないのか?
だから、同じテーマで何度でも歌を読む。
井上陽水はイメージの世界に逃げたように私には思える。
井上陽水といえば、人気の絶頂だったころに、「日本酒を飲みながら、都はるみを聞く」
と書いてあったことがあり、そのミスマッチに私はびっくりした。
彼には彼の追いかける音楽が早くから見えていたんだろうと思う。
若いひとに聞くと今の歌は歌詞の意味よりはイメージを大切にする歌らしい。
歌詞の意味はそれほど大事でなく、言葉のひびきがもたらすイメージが大切な歌もあるらしい。
中島みゆきのすばらしさは、自分の中にあるものを詞で表現しようと苦しみつづけていることでは
ないだろうか?
「囁く雨」という曲のバックに雨の音を入れたのは、「おまえの家」以来である。
やっと、自分がやってきたものに、信頼がおけて、今の気持ちを素直に書きたいという風な感じを
最近の歌から感じる。以前にあったことを遊びの精神で繰り返す余裕を感じる。
そんなことを私は思う。
中島みゆきが変わったというひとがいるが、私には一貫して同じに聞こえる。
また、逃げずに苦しんでいて立派だと思う。
変でしょうか?
素人の戯言かも知れませんが、ここがおかしいと思えばご指摘下さい。