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1808年夏にベートーヴェンが住んだのがこの家である。当時、1808年の春に完成された『運命』交響曲の後に、『田園』交響曲に取りかかっていた。

詩人のグリルバツァーによると、当時、ベートーヴェンはグリルバツァーの家族が住む隣の部屋に住んでいた。詩人の母親が音楽が好きだったので、ベートーヴェンがピアノを弾く様子を、扉の外で立って聴いていた。ベートーヴェンは自分のピアノが誰かに聴かれるのを嫌っていて、ある時、ベートーヴェンはその夫人が自分の演奏を聴いている様子を見つけてしまった。それから後のこの家に住んでいる間、ベートーヴェンは決してピアノを弾くことはなかったという。

銘板には、「1808年、ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェンとフランツ・グリルバツァーがこの家に住んだ」と書いてある。

ベートーヴェンは音楽で何かを描写することをくだらないことと見なして、そうしないようにしていたらしいが、『田園』交響曲については独特な方法でそれを成し遂げた。スケッチの中に書かれている内容を紹介しよう。

「特性のある交響曲-または田園生活の回想、聴き手にはそのような趣旨を理解してもらいたいと思う。
田園生活のある回想。
器楽描写は、何事にいおいてもやりすぎてはいけない。
田園交響曲。誰でも田舎の生活を思い浮かべれば、たとえ表題がなくても、作曲者の意向を、自分で見極めることができるはずである-また、表題がなくても、全体は音による描写というよりも感情の表現であることが分かるだろう。」

この曲は、感情による音の描写という点で、他の作曲家の作品とは異なっていた。『田園』交響曲は、ベートーヴェンがグリンツィング(ハイリゲンシュタット)で感じたり経験した事が表現された作品なのだ。ウィーン・フィルの楽員達は、みんなこの曲が作曲された場所であるグリンツィングの雰囲気を知っているだろう。彼らの『田園』交響曲の演奏がいつも素晴らしいのは、毎晩オペラで何かを描写する音楽をやっているからだけではなく、作曲された場所の暖かくて長閑な雰囲気を知っているからであるに違いない。

グリンツィングに残っているベートーヴェンハウスは、伝承によってベートーヴェンが住んだとされた建物が決定されており、どれも確実ではない。この家はグリルバツァーの証言によってベートーヴェン・ハウスとされているが、曖昧さが指摘されている。ただし、ベートーヴェンが住んでいた当時の雰囲気が残っているのは確かであろう。後年、体調の悪化がなければ、夏の滞在先に、グリンツィングを選んだかもしれない。ここには、美味しいワインの飲めるホイリゲが今でもたくさんある。ベートーヴェンはワインが大好きだった。それに、グリンツィングの長閑で暖かい雰囲気は、落ち着いて作曲をするのに適していたに違いない。ただ、起伏が多いので、歳を取って弱った体力のベートーヴェンには合わなかったかもしれない。もしかしたら、耳が聞こえなくなる兆候がはっきりと分かった時に住んでいたこの場所を好まなかったのかもしれない。

『田園』交響曲を作曲したとされる小川沿いの小道もある。確実なベートーヴェン・ハウスがなくても、この辺りは、ベートーヴェンの作品が生まれた時の雰囲気を現在に伝える貴重な場所である。

『田園』の家である「ベートーヴェン・グリルバツァー・ハウス」の数軒先には、1927~1931年に物理学者のアルベルト・アインシュタインが住んだ家がある。仲の良かった物理学者のフェリックス・エーレンハフトが、ゲストとしてアインシュタインを呼んで、研究のために場所を提供した。

グリンツィングのエロイカ・ガッセを抜けると、ベートーヴェンの小道がある。その小道は小川に沿って、散歩道が整備されている。その先には、1863年6月13日に除幕されたベートーヴェン像がある。

Address: Grinzingerstrasse 64

*写真は、上から2枚が「ベートーヴェン・グリルバツァー・ハウス」、次の2枚がアインシュタインの家、次がベートーヴェンの小道沿いに流れる小川、その先にあるベートーヴェン像である。


1809年は、ベートーヴェンにとって特別な出来事があった。エルデディ伯爵夫人の働きかけによってウィーンの有力な3人の貴族との年金契約を結ぶことが出来た。この契約によって、経済的な心配なく、ベートーヴェンは作曲や演奏活動に専念できるようになる。実際には、後のナポレオンによるウィーン侵攻などによって、上手くはいかなくなるのではあるが。エルデディ伯爵はハンガリーの貴族で、ハイドンが最後の2つの弦楽四重奏曲を献呈した事で知られている。エルデディ伯爵夫人との親密な交際は、いつどのように始まったのかは明かではないが、ベートーヴェンは聴罪司祭と夫人のことを呼んで、何でも悩みを相談したという。ベートーヴェンは、後に、ピアノ三重奏曲作品70とチェロ・ソナタ作品102を夫人に献呈している。

ベートーヴェンが年金契約を結んだのは、当時21歳のルードルフ大公、27歳のキンスキー侯爵、35歳のロプコヴィッツ侯爵だった。きっかけは、ベートーヴェンがカッセルに楽長として招かれたことで、ベートーヴェンがそれを引き受けようとしていた。エルデディ伯爵夫人とウィーンの何人かの貴族の人々はベートーヴェンをウィーンに引き留めたかったのである。。3人の貴族が若かったことを考えると、当時のベートーヴェンの斬新な音楽が、若い世代に受け入れられていたことが分かる。

領土拡大を目指すナポレオン・ボナパルドは、ウィーンの城壁を取り囲んで1809年5月11日の夜9時に砲撃し、翌日には陥落させ、13日にウィーンへ入城した。ベートーヴェンのパトロン達はウィーンを離れて避難していたので、ベートーヴェンには頼るべき人もなく、ウィーン中心部に住んでいた弟カスパールの家に避難した。地理的には城壁から遠いので、大砲の弾が当たる確率が少なかったに違いない。リースによると、「ほとんどの時間を、弟カスパールの家の地下室で過ごし、大砲が聞こえないように枕で頭を覆っていた」という。このすぐ後の5月31日にヨーゼフ・ハイドンが死去したが、ベートーヴェンが葬儀に参加したかは明かではない。

弟カスパールの家のすぐ近くにはベートーヴェンとシューベルトが好んで訪れたレストランがあった建物がある。

何れも特に記念プレートはない。
弟カスパールの家(7枚目の写真)
Address: Ballgasse 4

レストランがあった建物(8枚目の写真)
Address: Ballgasse 6