イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

ヘルベルト・フォン・カラヤン通りを大分歩くと、住宅地が終わり、大きな山が目の前に現れる。遠くにも、美しい雪山が見える。そこから少し歩いていくと、道の左に茂みがあって、その中に白い壁の大きな家が見える。とても庭が広い。これがカラヤンの家である。ここで1989年7月16日にカラヤンは亡くなった。

*下の写真は庭のすぐ近くから写した風景。きっと部屋からはこれと似た風景が見えると思われる。右に見える区切られた敷地が庭である。


大賀典雄 「私の履歴書」 帝王カラヤン(2003年1月20日 日本経済新聞 朝刊)

 クラシック界の帝王、ヘルベルト・フォン・カラヤン先生に初めて出会ったのは一九五六年、ドイツ留学中に声楽家の田中路子さんと訪ねた時である。巨匠を前に緊張して微動だにできなかったが、その二十年後、CDの開発を通じ急速に親しくなった。
 カラヤンは五五年にベルリン・フィルハーモニーの常任指揮者に選ばれ、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いだった。音楽だけでなく音響機器にも関心が高く、ザルツブルクの自宅地下室にはソニー製の音響映像機器をそろえ、自分の演奏の編集をされていた。
 晩年はせき髄を傷め、プールで泳ぐのを日課としており、七七年秋の来日の際も二人の娘を連れ、プールのある東京・青葉台の盛田昭夫邸を訪ねた。ひとしきり泳ぐと「最近の録音技術は?」と聞かれるので、完成したばかりのPCM(パルス符号変調)録音装置で彼のリハーサルをデジタルで聴かせて差し上げた。
 「CDが完成すればこれが家庭で聞けます」と私が言うと、驚いたカラヤンは八一年春にザルツブルク音楽祭でレコード関係者を集め、試作中のCDを披露する場を設けて下さったのである。試作機は電源を入れておくと発熱してしまうため、社員が机の下に隠れ、いざデモという時に手を伸ばして起動した。
 カラヤンは銀色に光るディスクを自ら聴衆の前にかざし、CDの将来を存分に語って下さった。そうした彼の献身的な支援がCDの導入に大きく貢献したのである。
 カラヤンと私が親しくなった最大の理由は飛行機という共通の趣味である。日本での公演中にも私を楽屋に呼び出し、新しく購入する飛行機の意見を求めた。手紙では親しみを込めて「My Copilot(親愛なる副操縦士よ)」と私を呼んで下さった。
 いってみれば私はカラヤンの音響技術顧問であり、飛行機のアドバイザーだった。八二年に私がソニーの社長になると「これからはキャプテン(機長)と呼ぶことにしよう」と笑っておられた。
その七年後のことである。私は家内と後に米国ソニーの社長となるミッキー・シュルホフを連れ、カラヤンを訪ねた。飛行機が早く着いたので、ザルツブルクの工場を視察してから訪ねようと思ったが、出迎えの女性が「今日は自宅へ来てほしい」と言う。
 カラヤンは少し体調を崩されたようで二階の寝室で話すことになったが、私を見るなり新しく購入する仏ダッソー社のジェット機「ファルコン」の話を始めた。そして話題が音楽に移った時、医者の到着を知らせる連絡が入った。だが彼は「この会談は中国のエンペラー(皇帝)でも邪魔はできない」と言って追い返してしまったのである。
 「水をくれ」というのでミッキーがクラスを渡すと静かに飲み干した。と、その瞬間、頭が横に傾いた。エリエッテ夫人があわてて医者に連絡したが、カラヤンはそのまま帰らぬ人となった。
偉大な音楽家との惜別。しかも目の前で。私は人間の命がいかにはかないかをその時に知った。
あまりのショックで翌日今度は自分が心筋梗塞になり、ケルンで倒れてしまった。カラヤンが私を連れて行こうとしたのかもしれない。以来、私の病気との戦いが始まった。その話は後にするが、カラヤン氏の存在はそれほど大きかったのである。