地震の2日後から、イオンは営業再開してくれました。
けれど、お店の中には入れず。
お店の入り口に、あるものを出しての営業でした。
開店前から長蛇の列。
それでもみんな、辛抱強く並んでいました。
私たち家族も、地震の翌々日の午前中、イオンで買い物をするために並びました。
3時間並び、みかん、インスタントラーメン2個、インスタント春雨を2袋、懐中電灯、お菓子、おむつ、飲み物などを買うことができました。
並んでいる列には、気仙沼からガソリンを求めて一関まで出てきた、という男性もいました。
私が前に並んでいた女性と、ガソリンがほしい、もうほとんどないんだという話をしていたら、
「俺も気仙沼から出てきたんだよ。でも、一関もガソリン全然ないな。もう赤ランプついてるんだ。地震当日にお金が入ったから、入れようと思っていたところだったのに・・・。せめて、千厩までガソリンきてくれたらな」と。
その男性の気仙沼のおうちは、幸運にも残っているそうです。
よかった。
私の前に並んでいた女性は、ガソリンスタンドが地震の翌日も営業していたこと、でも今はもう緊急車両のみで一般車には給油してくれないこと、など、親切にいろんな情報を教えてくれました。
電気も、もう水沢まではきているので、明日の午後には一関にも通るんじゃないか、と言っていました。
並んでいる間、ずっと話していて、なんだか心強かった。
みんな、大変な状態なのに頑張っている。
みんなで頑張ろう。
避難所でも買いものの列でも、被災者同士、知らない人でも声を掛け合う空気が生まれていたし、連帯感のようなものも生まれていました。
けれど、やはり避難所での生活は厳しい。
あまりにも人が多く、次第に疲れや焦りからか、喧嘩をする人たちも出てきました。
ジュニアのように小さな子がいる私たちは、やはり周囲に対して、より気を使うことになります。
実際、ジュニアが騒いでいる時に、「うるさい」と苦情を言われたこともありました。
みんな、精神的にもかなり疲れていたんだと思います。
精神的にも体力的にも限界がきてしまい、イオンで買い物をした夜には、私たちは一関の自宅に戻りました。
大きな余震がきたらと考えると怖いけれど、誰にも気を使わず、ジュニアにものびのびさせてあげたかった。
冷たい床にではなく、自宅の寝室で寝たかった。
暗くなっても、電気はつかない。
でも、懐中電灯を手に入れたし、何より自宅では、幸運にも、まだ水道が生きていました。
確認すると、ガスもプロパンガスだったので、使用することができました。
地震から3日後、はじめてあたたかいものを食べることができました。
帰る場所がある私たちは、ほんとに恵まれていたと思います。
真っ暗な中、懐中電灯で照らしながらの生活。
ジュニアも家に帰ってきたせいか、嬉しそうにはしゃいでいました。
親子3人で、久々に誰にも気をつかうことなく、寝ることが出来ました。
家のふとんのありがたみをしみじみ感じました。
そして、パパの会社の同僚から連絡が入り、平泉のほうでガソリンスタンドが営業を始めたと聞いた、とのこと。
ほとんどガソリンがなかった私たちは、自宅に戻った翌日、平泉までいこうと、県道を走っていました。
すると、ものすごい渋滞にぶち当たりました。
もしかして、ガソリン・・・?
そう思い、私だけ車を降り、渋滞の先を確認しにいきました。
するとガソリンをいれる赤い容器をもった人たちが歩いています。
車の列は、JAのガソリンスタンドまで続いていました。
ガソリンが入れられる!!!!!!!!!!!
本当に嬉しかった。
急いで戻ってパパに知らせました。
1時間以上並び、10リットルのガソリンを入れることが出来ました。
そして、ふたたび車列に並び直し、また1時間以上かけて、計20リットルのガソリンを入れることができたんです。
後から聞くと、一関でガソリンを入れられたのはその日までで、以降数日は、まったくガソリンの供給がなかったそうです。
ガソリンをいれた後、私たち夫婦は話し合いをし、荷物だけを一関におき、その日の夜のうちに車で兵庫に戻ることを決めました。
一関でずっと仲良くしていた友達に、イオンで買い物していた食料を届けるため、そしておわかれを言いに、会いに行きました。
その子は、地震当日旦那さんが東京へ出張に出かけていて、地震が起こっても、旦那さんはなかなか一関に帰ってくることができませんでした。
地震の3日後、私たちが一関を出る前日に、やっと帰ってこれたそうです。
それまでのあいだ、小さな子どもといっしょに、マンションの8階で、強い余震や電気水道のない生活とたたかっていました。
たったひとりで、どれだけ怖かっただろう。
玄関のドアを開けた途端、その子の目はみるみる涙でいっぱいになりました。
食料などについては、近所の方がもってきてくださったり、なんとかやっていられたそうです。
けれど、精神的には心細くてたまらなかったと。
私たちが訪ねたその日も、旦那さんはいまだ連絡のつかない気仙沼の両親を探しに車で出かけたきり、何の連絡もない、と憔悴し切った様子で話していました。
そんな友達をおいて、兵庫に戻ろうとしている私たち。
すごく申し訳なくて、涙が出てきて、「ごめんね、自分たちだけ出て行くことになって」と謝りました。
「なんでこんなことになっちゃったんだろう・・・」とふたりで泣きました。
友達は、「早くこんなとこ出たほうがいい。ご両親だって心配だよ。早く帰って、元気な顔みせてあげて。大丈夫、今度会うときは笑顔だよ。兵庫まで気をつけて」と、泣きながら言ってくれました。
私たちだけ一関を出て行くことが、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
友達と繋いだ手を、なかなか離せずにいると、「暗くなる前に出な。ほら、早く行きな。」と。
楽しい一関での生活は、この友達がいてくれたおかげでもありました。
本当に、一関という街が好きになって、兵庫から一関に戻ってくるときなども、「帰ってきた~」という感覚になるほどでした。
その一関を、こんな形で出て行くことが、本当にさびしかった。
なんで地震なんておこったんだろう。
言っても仕方がないかもしれないけれど、本当に心からそう思う。
都知事が、「地震は天罰。我欲を津波で洗い流せ」と言ったこと。
大阪府議長が、「地震は大阪にとって天の恵み。この地震が起こって本当によかった」と言ったこと。
私は、一生許せません。
被災者の人たちが、いったい、どんな悪いことをした!?!?
ただただ、普通に、幸せに生活していただけ。
家族、友達、家、車、船、仕事、幸せだった生活、なにもかもを一瞬で奪われた人たちの気持ちが分からないのなら、人の上に立つ資格なんてない。
被災地の苦しみは、まだ続いています。
でも、みんな、明るく前向きに頑張ろうと、立ちあがっている。
東北、関東の人たちの優しさ、強さを感じます。
兵庫に戻った私たちにも、できることをしたい。
少しでも復興の役に立てることをしたい。
そう思っています。