短かった冬休みが明け、それでも久しぶりに感じる学校へ何故だか爽やかな気分で足を運んだ日。そういえば、その日も何故か朝早く目が覚めて、いつもより早く登校したのを覚えている。その久々の学校で、一番初めに顔を合わせたのが、彼女だった。

「おはよう」

 教室に唯一人いた彼女は、教室に飾ってある誰も見向きもしないような花に水をあげていた。僕は、無視するのも気まずいので、とりあえず挨拶をした。

「お、おはよう」

 慌てたように言う彼女。別に悪いことをしているわけではないのに。

「それにしても早いね。そういう係だったっけ?」

「ううん、そういう訳じゃないんだけど・・・」

 次第に顔が赤くなっていく彼女。もとの肌の色が白いので、色の移り変わりがよくわかった。

「今日久しぶりに学校に来たから、その、なんとなくなの」

「ふ―ん、優しいんだね」

 何気なく言った僕の一言に、彼女は意外なほど反応を見せた。

「そ、そんなことはないよ。ただ花が好きっていうか、たまたま朝早く起きただけっていうか。だから全然そんなことないの」

 さらに顔を赤くして叫ぶ彼女を見て、僕は思わず笑ってしまった。

「そんなに力いっぱい否定しなくても」

「えっ・・・ご、ごめんなさい・・・」

「いや、謝られても」

 コロコロ変わる彼女の表情が、とても愛らしく思えた。考えてみれば、彼女とこんなに話をしたのは、このときが初めてだった。

 それからしばらくの間、内容がありそうでない世間話をしていた。その二人だけの空間はとても心地よかったけれど、教室のドアが開き、例の赤髪ドクロが入ってきたことによって、いつもの現実へと戻された。


 始業式を終え、三学期はじめのホームルームが始まった。内容は宿題の提出と教師の話、そして最後には・・・席替え。

 高校生にもなってこんなこと別にしなくてもいいとも思うが、それでも学生にとっては重要なイベントの一つである。特に誰の隣がいいということはなかったが、それでも周りが男だらけの学校生活よりも、隣で目の保養ができる学校生活のほうがいいに決まっている。授業を受ける気力だって十年後の消費税分くらいは上昇するだろう。

 僕はアミダくじの左から三番目のところに名前を書いた。特別な意味はなく、ただ三という数字が好きだったからだ。しかし、その選択が僕の運命を大きく左右することになる。

 結果は、今のこの状況を見ればわかるが、窓際の一番後ろという好ポジションをゲット。そしてその隣には・・・彼女がいた。

 フワフワとしたショートカットの黒髪が、白い肌にとてもマッチしている。クラスの中ではあまり目立たない存在であるが、はっきり言って美人だと思った。これまであまり話さなかったのは、話す機会がなかったというのもあるが、彼女はとても物静かで、それまでの僕の彼女に対するイメージは、いつも本を読んでいる少し暗い女の子、というようなモノだったからだ。

「よろしく」

 彼女に言った。その時の僕の顔は自然と微笑んでいたかもしれない。

「よ、よろしく」

 その日の朝のように、顔を赤くして、うつむきながら彼女が言った。どうやら相当な恥ずかしがり屋のようだ。

 窓の外には、彼女のように白い雪が、彼女のように静かに降り続いていた。


 その後の一ヶ月あまりは、本当にあっという間に過ぎていった。はじめは挨拶程度しか会話はなかったけれど、彼女の読んでいる本をきっかけに会話は増えていった。彼女は僕にお勧めの本を貸してくれ、僕はそのお礼に彼女の勉強を見てあげた(自慢ではないが、これでも勉強はできるほうだったのだ)

二人は気づかないうちに、名前で呼び合うようになっていた。

 ・・・その彼女が僕にラヴレターを。

(・・・どうしよう)

 これが、僕の今の本心だ。もちろん明菜のことは嫌いじゃない。いや、正直言って好きなのだと思う。

(でも・・・)

 わからない。これまで女の子と付き合うどころか、ろくに遊んだことさえない僕には、女の子に対してある種の壁を感じていた。そんな僕が、女の子とうまく付き合えるのだろうか。いや、女の子と付き合う資格があるのだろうか。そんなネガティブな考えばかりが頭に浮かんでしまう。

 そんなことを考えていると、ホームルームの始まりのチャイムが学校中に響き渡った。僕は慌てて自分の教室へと戻り、扉を開けた瞬間、明菜と目があった。思わず体の動きが止まった。体に電流が流れたかのように、指一本動こうとしない。無限とも思えるその時間を破ったのは、

「コラ田代! もうホームルームは始まってるぞ」

 という、担任教師の一言だった。

「は、はい、すみません」

 金縛りの解けた僕は、急いで自分の席に座る。極力自分の右側は見ないように。

 ホームルームはすぐに終わり、一時限目の社会が始まった。もちろん授業の内容など、ほとんど耳には入らない。

(何だったんだ今の? まだ心臓が鼓動してる)

 頭で整理しようとしても整理できない。考えがまとまらない。今まで経験したことのない感覚が僕の全てを支配する。そんな中、僕はふと、本当に無意識に、自分の右側・・・つまり明菜に目をやってしまった。

 瞬間、思わず目をそらした。耳の先まで赤くなっている自分が良くわかった。

手から汗までにじみ出て、もう何がなんだかわからない。

社会科の教師が、世界の環境問題について熱く語っていた。



(・・・はぁ)

 憂鬱・・・そんな小難しい漢字二字が頭に浮かぶ。確かに僕はヤキモチを焼いたのかもしれない。中一で手作りのチョコレートをもらう男の存在に。兄バカとかではなく、客観的に見て妹は可愛い方の部類に入ると思う。淡い栗色の髪(染めているのではなく、元々色素が薄いのだ)のポニーテールが良く似合い、最近では少し化粧もするようになった。だが昔はお兄ちゃんお兄ちゃんと言っては、何かと近づいてきたというのに、今じゃ朝のような態度をとるようになってしまった。いや、それはそれで生意気で可愛いのだけれど・・・

(って、これじゃ本当の兄バカだ・・・)

 自嘲の笑みをこぼしつつ、僕は学校に到着した。バレンタインデーの王道としては、下駄箱を開けるとチョコレートが・・・などという展開が望ましいが、この高校の下駄箱はフルオープンなので、まったく期待せずに普通に通過。すれ違う友人たちに適当に挨拶をしながら自分の教室に入る。一年二組、全国に五万とありそうな平凡なクラスだ。その空間の中の自分の居場所、つまりは自分の席に腰掛ける。そして極わずかな期待を込めて机の中に手を入れる。すると・・・

「おはよう、コウ!」

 古い言い方だが心臓が口からとび出すかと思った。声をかけてきた人物は、僕の古くからの友人(要するに腐れ縁というやつだ)山崎(やまさき) (たか)(ふみ)だった。

「・・・・・・おはよう」

 明らかに不審な態度をとってしまった。

「どうした、シケた顔して。あっ机の中にチョコが入ってなくてヘコんでるな?」

 ・・・妙に鋭い男である。

「何のことだ?」

「またまたー、とぼけちゃって。今机の中を確認してたんだろ?」

どうやら全てお見通しのようである。まあ、昔から二人でいつもツルんでたから、これくらいはわかって当然なのかもしれないが・・・

「で、入ってなかったんだろ、チョコレート」

机の中を確かめたことを否定しても無駄だと感じたので、

「まあな」

 と、素直に答えた。ただし、素直であったとして、それが真実だとは限らないのだけど・・・

「そういうお前はどうなんだ?」

 これ以上突っ込まれると厄介だったので、矛先を相手に向けた。

「俺? 俺にチョコ渡すような趣味の悪い女はいないだろ」

「・・・自分で言ってむなしくならないか、それ」

「んにゃ、全然」

 実際、この隆文という男はそれほど不細工ではない。いや、むしろ十分男前の部類に入るほうだと思う。しかし女にモテているのは見たことがない。それは、性格的な問題もあるのだろうけど、一番の原因は見た目である。

“赤髪ドクロ”

彼を一言で表すならばこの一言で十分なのだ。明らかに校則違反な、燃えるように赤い髪と、こちらもぶっちぎり校則違反な金色のドクロの装飾品に包まれた、身長百八十センチの大柄な男。確かにこんな男にバレンタインチョコを渡す女の子は想像できない。っていうかよく一応は進学校であるこの高校に入学できたなあと、今でも思う。

 ちなみに言っておくが、彼とは間違いなく友人だが、僕は彼のような校則違反は全くしていない。まあ、昔は二人で多少無茶はやっていたが・・・

「そんなことよりタカ」

 僕は、彼のことをそう呼んでいた。

「何だ?」

 僕は教室の扉のほうに視線を移し、

「あれ」

 一人の初老の男がこちらを睨んでいた。

「げっ、クリキン」

 クリキンとはその初老の男のあだ名である。何故こんなあだ名なのかというと、決して栗金団が好きだからとかそういう理由ではなく、その男の髪型が、教師にも関わらず見事なアフロヘアーだからである。そう、まるで一昔前に流行った某歌手のように。

「な、何でこんな朝早くから」

 少し怯えたような声でタカが呟く。何を隠そう、このクリキンこと白石(しらいし) (とおる)は、生徒の誰もが怯える生活指導の教師なのである。自分のその頭は良いのか!と誰もがツッコミたくなる生活指導教員なのだが、それを口にした生徒は三日三晩柔道の稽古をつけられたという逸話があるので誰も逆らうことはできない。

「そういえば、今日から指導強化週間だったな」

「何だそれ、聞いてないぞ!」

「知らね―よ。それより、ご指名みたいだからさっさと行けよ」

「お前、親友を売る気か?」

「親友だからこそ、しっかりと更正して欲しいんじゃないか」

 満面の笑みでそう応える僕。

「ウソだ! その笑顔からは明らかな悪意を感じるぞ」

 そんなことを叫ぶ親友を無理やりクリキンに引き渡し、今生の別れを告げる。

 そして僕は、もう一度改めて机の中を確認する。

(・・・やっぱり)

 机の中には、綺麗に包装されたハート型のチョコレートが一つ入っていた。差出人はまだわからない。ただ、包装のリボンの間には手紙のようなものが挟まっていた。

 僕は、ホームルームまで時間があることを確認し、その手紙をポケットに入れて誰もいないであろう屋上へと向かった。別にトイレでも良かったが、なんとなく気分的に、屋上へと足を向けていた。足は自然と早足になり、階段は一段飛ばしで上った。もしかしたら、タカあたりの悪戯かもしれないとも考えたが、そんな手の込んだことをする奴ではないことは僕が一番良く知っている。              ようやく辿り着いた僕は、屋上の扉を開けた。かなり冷たい風が吹いていたが、そんなことはどうでもよかった。そして、屋上には、予想通り誰もいない。

 手紙を開けるまでには、一分くらいの時間を要した。かじかんだ手で、きれいに封筒を開け、ゆっくりと、一字一字確かめるように読む。

 それは、いわゆるラヴレターだった。差出人は・・・

「・・・竹下(たけした) 明菜(あきな)

 僕の隣の席の女の子だ。言われてみれば今日は朝早くからいて、席で本を読んでいたような気がする。僕は、彼女の顔を思い出すと共に、一月ほど前のある出来事を思い出していた。

   出会いと別れの間に

 二月十四日―

 世の男性は少なからずの緊張を持って目覚める日であろう。女性関係に比較的疎い僕でさえ、そんな朝を迎えたのだから。いつもは、あと五分は布団から出てこない僕だが、この日に限ってはすぐに体を動かすことができた。

 男とは本当に妄想好きな生き物だとこの日だけは感じてしまう。貰える予定もない甘いチョコレートに胸を膨らませ、あるはずのない甘いラヴストーリーに心を躍らせる。毎年そんな甘い期待は、現実という辛く厳しい壁によって、打ち砕かれてしまうのにも関わらず。

 

「おはよう兄貴。今日は早いね」

 僕が階段を下りてリビングに入ると、すでに妹の朱里(あかり)が朝ごはんを口にしていた。

「朱里がな。っていうか目の下のクマ、すごいぞ」

「えっ、ウソ!」

 慌てて自分の顔を手で押さえる妹を笑いながら、

「ウソ。でも昨日夜遅くまで一体何してたんだ?」

 答えのわかっている問いを、意地悪くしてみる。

「・・・バカ兄貴」

 そう言って、妹は朝ごはんを半分くらい残してとっとと学校へと行ってしまった。僕は自分の椅子に座り、一息つく。甘い匂いに包まれながら。

「コウちゃん、あんまりからかっちゃ駄目よ」

 母親が僕の分の朝ごはんを持ってきて嗜めた。ちなみにコウちゃんというのは僕のことだ。別にどうでもいいことだが、僕には田代(たしろ) 孝一(こういち)というちゃんとした名前がある。中学生の頃はこのコウちゃんとか言うふざけたあだ名に、思春期ならではの抵抗をしていたが、高校生となった今では半ば諦めと共に受け入れていた。

「中一で手作りチョコなんて色気付いてるからだよ。まったく、誰にあげるつもりなんだか」

 ホクホクの卵焼きをつまみながら呟く。

「あら、コウちゃんったらヤキモチ?」

「ゴフッ・・・誰が!」

 卵焼きを噴き出しそうになったが、寸前のところで堪え、その後なんとなくその場に居にくくなったので、急いで残りの朝ごはんを掻き込んだ。

「ごちそうさま」

 少し早いが家を出ることにした。荷物を確認し、玄関で靴を履いていると、

「コウちゃん」

 母がまた話しかけてきた。

「今度は何?」

 ぶっきらぼうに答える。あえて顔は合わせずに・・・

「大したことじゃないんだけど、いい機会だから言っておくわ」

「だから何?」

「女の子は、男の子よりもずっと早熟で、男の子が思っている以上に大人なの。コウちゃんもいずれわかると思うけど、前もって知っておいて損はないわ」

「・・・・・・・・・」

 僕は何も言わずに家を出た。暖かな家の中から、息も凍るほどの冷たい外へ。