水野社会保険労務士事務所のブログ

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豊橋市で社会保険労務士をしております、水野收です。会社で勤めていた時にけがをした(労働災害)、勤めている社員が会社の資金に手を付けた、会社としてどうしたら(就業規則)、長く連れ添ったつれあいが亡くなった(年金)などでお困りの方是非ともご相談下さい。

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トワイライトエクスプレス

今日のyahooの記事の中にトワイライトエクスプレスが引退するとありました。
25年走行したのですが、老朽化により存続を断念したそうです。

この機関車はEF81で交直両用タイプの機関車です。
今は、交直両用の機関車はEF510(以下の写真)に変わっています。
交流・直流とは電気の流れのことです。このトワイライトエクスプレスは
福井県の敦賀市から交流に変わります。EF510は、EF81の発展機の
ような役割であり、今まで、JR東日本の寝台特急である「カシオペア」
「北斗星」もEF81を使用していましたが、EF510がデビューして同機に
変わりました。





また、大阪駅にビデオ撮影に行こうと思っています。

 




 

私がはまっているプレステ3のゲーム「真・三國無双7・猛将伝」。
「真・三國無双7」とmixjoyすると無双7のデータを引き継げて、
楽しさ倍増。

今は「上級の武器取り(第二秘蔵武器)」の取得を楽しんでます。
私の好きな武将(エース)は、文鴦(ぶんおう)です。
晋の武将で、蜀の武将の趙雲に匹敵すると言われた武将です。
字(あざな)を次騫(じけん)といいます。

若武者で熱血。
ゲームをしていて、爽快なのは無双乱舞。
レーサーの恰好をした特別コスチュームで遊んでいます。


「気迫で勝負だ!」「我が闘魂を受けよ!」
「燃えあがれ闘志!文次鶱いざ参る!」
しびれます!


鉄道

久々のブログ投稿です。
今日、CBCテレビの「イッポウ」であおなみ線に
名古屋~金城埠頭まで直通(ノンストップ)を
走らせる構想があることを放送していました。

実現すると普通しかありませんので、名古屋~金城埠頭間が24分ですが、
17分と短縮されるそうです。同線は、H16年10月に開業し、
イメージカラーの「あお」、名古屋の「な」、港の「み」から採られているそうです。

金城埠頭は、「JR東海のリニア鉄道館」、
以前は名古屋輸入車ショウが開催されていた「ポートメッセなごや」があります。
H28年度にレゴブロックのテーマパークができるそうです。
それも狙ったことでもあるのでしょう。

しかし、特急を走行させるに問題が。
待避線がありません。名鉄瀬戸線(栄町~尾張瀬戸)は、
普通と急行の時間差が8分で、
待避線がないために急行より先に出た
普通を追い越さないようなダイヤ編成をしている
ようです。あおなみ線もこのようになるようです。

地元の方は利便性ありと歓迎はしているようです。
H23年7月1日に蒸気機関車が走ったあおなみ線。
また、注目を浴びるかも知れませんね。



年末

まもなく2013(H25)年も終わりです。
皆さんはどんな年でしたか?

来年はいい年でありますように。
では皆さんどうぞよい年をお迎えください。

北条時政

源 頼朝が1192年に開いた鎌倉幕府。
征夷大将軍の頼朝を支えたのは北条氏でした。
写真は北条政子の父である北条時政です。
後に初代執権となります。

北条政子

北条氏はもともとへ平氏でした。
平治の乱で敗れた源氏の御曹司の頼朝を監視していました。
伊豆での頼朝を監視していたのですが、政子は頼朝と深い仲となります。
時政も最初は平氏に見つかってはまずいと政子に注意していましたが、
次第に黙認するようになります。
1180年に以仁王が平氏追討の兵(すぐに討たれる)を挙げたのを機に平氏追討に
向かっていきます。同年8月に頼朝は石橋山で挙兵、敗戦したものの関東一円の
武士の支持を得るようになります。

1185年に壇ノ浦で平氏を滅亡させ、1189年に奥州平定。
そして幕府を開く形となります。

1199年に頼朝が落馬がもとで亡くなります。
その後に、頼朝の実子の頼家が2代目となりますが、
この時に頼家は比企(ひき)氏を重用するようになります。
この状態は北条氏は一御家人でしかなくなる可能性がでてきます。
そこで、北条時政と義時(時政の実子、のちに2代目執権)ともに
北条にとっての抵抗勢力を倒していきます。(1203:比企能員(よしかず)の変)

<北条氏が有力御家人を滅ぼしていった変遷>
1200年:梶原景時
1201年:城氏(城長茂らの乱、建仁の乱)
1203年:比企能員
1205年:畠山重忠
1213年:和田義盛

これは現在でいう政争です。確かに滅ぼすのでやり方は黒いと思いますが、
北条氏は政治を堅実に実行しています。(のちに執権政治の確立、集団指導体制)
室町、江戸と武家政治の礎を築いていきました。


後鳥羽上皇

1221年の承久の乱で後鳥羽上皇側と対峙します。
この時代、京と幕府が政治を取り仕切る状態でした。
上皇は幕府の存在を疎ましく思っていました。
上皇は北条義時討伐の院宣を出します。
朝廷相手に弓を弾くのは朝敵となるのではと鎌倉側にも
動揺が広がります。そこで、北条政子が頼朝の恩顧を訴えて
動揺を鎮めます。鎌倉側が勝利し、朝廷は幕府に細かいことでも
伺い立てるように武家政治の確立をしていくことになります。

元寇(1274年文永の役、1281年弘安の役)の時に
北条時宗が執権でした。

北条時宗

日本の国難のため、御家人だけでなく非御家人である
寺社本所領にも兵を出すことを実施し、弘安の役後、
十分な恩賞を与えることができず鎌倉幕府の衰退を招くことになります。

時宗の死後は子の貞時が執権となりますが、
北条宗家(得宗)の専制政治となります。ナンバー2はいなくなってしまいます。
(北条は1番となってしまったのでしょうか・・・)

ナンバー1は「ちょっと待って」はできないが、ナンバー2は「上に伺いを
立てることができ、ちょっと待ってができる」からおいしい立場かな?と思ってしまいます。

個人的には、ナンバー2で目立たず堅実に行う人物が好きです。(笑)