ダウンタウンプラス始まったようですね

やはりどうなんだろう、もう松本人志は

松本人志越しにしか評価してもらえない

そういう状況になって、もう戻れない



面白いも面白くないも松本越しになって

内容だけをシンプルに評価されるには

まったく顔と名前を隠して何か表現する

そこで高い評価を得ることくらいでしか

叶えられないのではないかと思う



もう松本という、ダウンタウンという

フィルターを通さざるをえないし

そこには穿った見方もあれば過剰評価も

あるんだろうと思うしね、どうしても



やはりこういう配信スタイルになって

集まるのは両極端な意見だということ

信者ばっかりでもないと思うので



おそらく何かしらの意見を言う場が

その配信サイトまわりにできるのかな

マニアたちが集う場にあらわれるんです



ただただ文句言うためだけに毎月課金する

そういう人がね、必ずいますよ、必ず

あえてそこでマウント取りたい満たしたい

そういう人は必ずその場を壊しにくる笑



文句つけるな、黙って観とけの気持ち

通用した時代を経ているファンは納得も

しかし同じやり方が通用しない世代もいる



アンチの可視化は、きっと

ずっとオバケが見えてる

そんな状況なんだろうな



でもそのオバケは静かならいいけど

ミュートにしたとて聞こえてくる始末



考えてみれば昔もそういう人はいた

でも可視化されずに全体に知られず

思わせたい方向に向かせて引き連れる

そういう流れをつくりやすかった時代



ただ、いまも流れをつくろうとするのは

わかりやすいくらいにいると感じるけど

時代が変わっても流れに乗せられる人は

居なくならないし、仕掛けが巧妙に進化



なんもかんもこねくりまわして難しいなぁ

それが当たり前みたいな時代になってるが

それこなしてくのがスマートだみたいな虚像



そもそもね、ちょっと考えたんですよ

想像しながらどうだったのかと思ってね



ダウンタウンの笑いって乱暴なシーンが

多いのは多いんですよ、そこだけ観ると

わかりやすく言うと、強い役が浜田=A

弱い役が松本=Bとして想像してみてほしい



全体として松本がボケだから笑いは

Bが仕掛けるわけで、弱い立場のBが

少し調子乗って振る舞う行動に対して

怖い人や強い人のAに、なにしとんねん

そうやってシバかれる、それを笑う



でもこれはAの暴力行為の快感や

シバかれるBを蔑んで笑ってると

捉えてしまう視点が成立してしまうと

これがクレーム目線に繋がっていく



おそらくそうじゃないんですよ

Aくんひどーい的な優等生目線と

Bくんそら怒られるわ的、同調目線

この違いがギャップを生むのではと



昭和の時代に生きた人は世間や社会

コミュニティになんとなく存在する

強い者と弱い者のタテの序列的な関係

支配的に存在してるという認識がある



繁華街で普通の人が調子乗ってると

ちょっと怖い人に怒られるみたいな

そういう文化?笑、みたいなのがあり



松本がBの少し弱い者で調子乗ってしまい

少し怖いタテの上位の存在演じる浜田のAに

シバかれてしまい、すんませんと平謝り

でもおかしな文句をつけながら丁々発止



この構図のコントとかが多いんだと思うし

それをまた前提として入れ替えたり逆転して

逆ギレする展開に持っていったりするでしょ?



時代的に怖い存在は学校の先生だったり

お父さんだったり、お母さんだったり

近所のわけわからないオッサン、オバサン



目上の人らには基本、逆らえない雰囲気

だからこそ逆にイジって面白おかしく

仕返しして面白がる雰囲気は理解できる



Bより怖いAも、同じように上の怖い先輩が

出てくると途端にAはBになってしまい平謝り

先輩後輩の構図ですね、絶妙に仕組まれた

タテ社会の悲哀を面白おかしくイジる



これがわかってる人が笑えるんだと思う

この前提を理解できない人や世代は

笑えないという結論になってしまうんでね



こういうのを同時期に時代の雰囲気として

前提として理解できてないと笑いが成立しない



Bが調子乗ってシバかれることが、あるあるネタ

あるよなぁという気持ちや経験として私達世間と

共通理解として成立してないと笑えないんです

クドいですね、言葉でいうとそういう話



Bが鳩みたいな首づかいして、サーセンと

謝る姿、その態度にさらに怒るAが殴る蹴る

あったねぇ笑、納得いかないけど謝らないと

また怒られるから仕方なく不満げでも謝る



怖い怖い、でも調子乗ってやっちゃったもんな

そら怒られるよ笑、という同情や共有の笑い

みたいな感覚なんですよ、おそらくはね笑



そういうタテのラインの意識が高くて

その理不尽さを経験してるからこそ笑える

同情や共有の笑いの感覚だったんだなと



いま考えるとそういう側面から笑ってた

でもそれは無意識なんですよ

社会の常識がそうだから無意識になる



逆らうと痛い目みる側面を面白おかしく

設定をつくり、Bが逆にAをイジって

困らせていたずらするようなことで

笑いを生み出すみたいなことにも繋がる



でもこういうことがわからない人や

違う世代の人間は、このあるある感に

気づくことができないんでしょう



別に悪いことではない、そういう常識や

社会背景が崩れて共有できる状態では

なくなったんだという証拠ですから



怖い人が怖い人でなくなって居なくなる

そして昔の構図で弱かった人が偉くなる

すると偉くなった人が当然、上にくる

怖い人が偉い人に変わって質が変わる



弱かった人は虐げられた経験があれば

それを是正してなくそうとする社会を

つくっていく、現代そういう流れです笑



あるいは是正してそのイジメ的構図を

排除したようなクリーンさを前提として

育ってきた世代がどんどん進出してくる

ここまでイメージできてますか?笑



取り残された昭和の中年以上の笑いの

共有感覚は同じ世代でも敵はいるんです



当時弱かった人が嫌だった経験として

偉くなって徹底的に排除していく流れ

コレ、勉強できる人がつくった流れです笑



こういう大きな流れがつくられて

社会全体の雰囲気はタテ社会だけど

ちょっと怖さの質が変わるタテ社会



偉い人による支配の強まりで、大衆に

これまで馴染んできた同情や共有の笑いを

排除し続けてきたんだろうと思いますね



たぶん偉くなった真面目な優等生は

Aの視点の暴力性しか見ないんです

それを排除するのが正しいと思うから

正しいことをしようとしていく



でも当時のどうしようもないタテ社会

Bの悲哀や理不尽を笑いにする松本は

共通理解のある世代には通用したけど

その文化を時代に変えられてしまった



おそらくBの笑いに理解がある世代の

多くは称賛しながら観るんでしょう

松本のやることダウンタウンのやること

それを好意的なスタンス前提で受け入れて



そしてAの暴力やBが可哀想的な視点で

こんなのやっちゃいけないと思う人は

排除するために文句つけるために観る

取り上げて問題にしようと躍起になる



また時代は繰り返すんでしょうね

やっと見つけた楽園をまた潰しにくる笑

さて、どうなっていくのでしょうか?



これをギュッとコンパクトにまとめて

示すといいんでしょうけど、それだと

感情のない文章になるのでこれでいい

これがいいんです、20年後そう気づく

読みにくさ失礼しました、いまはね笑