喪主や葬式などにまつわる事を

必要以上に一生懸命やりすぎる

マジメな日本人の怖さ



別に熱心でない人も宗派の儀式に

なんやかんや引っ張られて流され

妙に偉そうな坊主に気をつかう笑



今回書くこの問題日本は窮屈だなと

律儀すぎると、窮屈すら受け入れて

優越感や達成感に変えてしまう怖さ



偉いのかもしれないがこちらは別に

偉いとも思ってないし、なんも感じぬ

ただただ、わからない世界のしきたりに

一時的に従うほうが無難なだけだから



生きてる者の年寄りの健康より重要?

宗派の流儀を優先して今日コレを必ず

やってくれなきゃダメですと言うが?



やっぱ坊さんはなんか偉そうにしてる

こっちの年寄りに無理させられない

協力はできませんと、ホントの信者なら

言うはずのない言葉でしょうけど



普段ならそれで通じるんでしょう

いくら当人の妹とはいえこれ以上

長時間ウチの年寄りを消耗させられない



当たり前の主張です、悪くなったら

この坊主、どんな責任とるつもりなのか

なんも責任は取らんでしょう?笑



いつ亡くなってもおかしくない

そう言われた状態から緊張感が続き

体調崩しかけた状態で坊主の言う事

信者でない人間は従わない事もある



そっちの邪魔はしないが、そっちの事で

こっちの側が邪魔や迷惑になるのは違う

臆せず主張する選択もアリだよ日本人

マナーとかそんな問題とは質が違う



葬儀関係全体を見てもなんだか妙に

全体的に確信のない世界観に疑問を

持つほうが間違ってるかのように

金つかわせまくる葬儀の現代常識に

ついていく必要なんてどこにもない



まして経済的負担は各自それぞれ違う

葬式のために貯金をする者が正しいか?

それすらできない人も多くいるだろう

これからもっと負担が増え否定できず

逆らえずに背負う流れはおかしいと思う



昭和喪主がすべきと決めつけて継承し

いまにいたる葬儀関係のビジネス周り

この流れに逆らえない搾取的状況



今回、ワタクスの叔母(母の姉)が

実は亡くなった件なんですけどもね



コンパクトにしたかった喪主と

それでもこうするしきたり的な流れとで

板挟みで想定外をいろいろ出しながら

怒涛の数日間で終わらせたという



嫌いですね、形式ばった葬式はもう

大人の常識がないと言われようが

好きじゃないものは好きじゃないと



コレをやらないと主張する自由や

自信を日本人は互いに封じてしまい

否定するのが相場、マナーとかね



喪主はその叔母の息子(推定60歳)

そんなにちゃんとした息子ではない笑

世間的にマジメな息子とは言い難いが



別居状態の父親の面倒もケアしつつ

仕事が忙しいらしく各地飛び回る日々でも

母親への愛情はあるし、家族として



できる範囲で、できることをして

必要ないと思うことはしないという

ちゃんと自己主張をできるタイプの人



ただ彼の主張をちゃんとしてないダメだ

ちゃんとやるべきだと主張する昭和喪主

どちらにも一理あるが未来より過去が強い



いろいろとあり叔母は、夫とは別居状態

あえて離れて生まれた土地の施設に入居

やはりというか予想どおり施設に入ったら

もう終わっていくなと、精神的にも

肉体的にも意思や運動機能を失っていった



普段と違う生まれた土地でも知人もなく

社交性もなく次第にふさぎ込むように

寝たきりとなり、衰弱してつい先日に



息子は東京住み、その叔母の夫とは

私たち家族はほぼ交流なしの状態で

つながりは叔母と息子で息子が喪主に



喪主と私はイトコ同士、我が母は

妹として一番近くで責任者的な役目

喪主の息子とは叔母として厳しめに



いっしょに暮らしていた時期もあって

愛情かけて育て、言われたくない事も

言う役目があるとウチの母は自覚してる



最低限で費用もかけたくない息子と

昭和喪主常識世代のワタクスの両親や

葬儀屋と寺のビジネスの波との闘い



ちなみに叔母は88だったか、ワタクスの

父母は81という感じ、もちろん自分たちの

父母を見送ってきた経験のある世代です

こうするのが常識という意識が強烈で

田舎だから特にそれがキツイとも感じる



ワタクスも小さい頃から葬式は出てたし

ある程度の年齢になってもよくわからない

意味がわからない出費を漠然と疑問に

思って、なんか道連れみたいな感覚だなと



同じことをしなきゃダメだと言うのだが笑

現代の私たちは思うおかしいものはおかしいと

流されるまま、常識どおりずっと続けるのは

正しいとは思っていないし、各自多様でいい



いつか、できなくなるだろうとも思ってる

世間的にできるのは経済的安定のある層

それがある程度多いのが昭和喪主世代でね



これまでの葬儀形態や常識の踏襲との

対立がやはり価値観の違いや経済的状況

それぞれの意思と周囲のこうすべきという

常識の価値観との対立、ありますよね笑



葬儀屋や寺や坊主に協力的すぎると

妙に負担が増えていても払うとか

葬式のために言われるまま出す的な

ちょっとおかしいんじゃないの?って



そこのちゃんとやろうとマジメに

言うことを聞いてしまう状況を

葬儀屋や坊主たちは利用してくる

本人たちの意思に見せかけて



正式にやりきるのが美徳や役目、目標

そういう事に熱心な人に意見を言うと

こうしなきゃいけないと、言い切る



ずっとそうやってきたという理由で

幸運にも満足にできたのは昭和の

一時的な時代以降に安定してた人だけ



その前の時代なんてやれないし

生きてく人優先であっていいのだから

昨今多くなった墓じまいの流れもわかる



死んだあとを満足にできなかった

だからこそ自分はちゃんとやりたいと

思うのもわかるけれども、それは

永遠にできるものでもないから



どんだけ無意識に利用させられてんだと

呆れてしまうんです、葬式ビジネスに



あくまで一般的に必要な事を、たとえ

段取りが悪くても自分のスピードと

タイミングで、かつできる範囲で



やる事を良しとしていかないとこれから

葬式終わって金がなくなるみたいな

借金や人への借りが増えるみたいなね



生きている人を苦しくしてどうするよ

アレもなきゃ、コレもなきゃダメ

段取り、花代、ムダな飲食代、イミフな菓子代

なにもかも必要?費用だけがかさむ現実



親戚や香典でまかなうことができるとしても

双方に離脱不可能にする足かせではないか

やめるにやめられないし、やらないと文句



そんな飲み食いの場で、喪主が負担して?

別にこれはなくてもいいし、無くすとして

やらなくてもワタクス世代は文句は言わない



田舎に限らずだろうけど参列すると

好きに飲み食いが許されるみたいな流れ

おかしな話と考えても間違いではない



誰のためにカネを払いモチツモタレツ状態で

妙に美徳感を持ち、乗せられてる感覚が強い

もっと自由に意思決定を表明できる雰囲気を

私たちは実力行使してでもつくるべきです笑



正直、どこまでやるべきかそれに対して

正しいとか足りないとか、間違ってるとか

満足するとかしないとか、正直違うだろと



どうでもいいんですよ、昔の人だって

経済的に右肩上がりになっていく世代は

その界隈で需要が増えて流れができて

そいつらの商売っ気に押される形で



どんどんアレもコレもやってやりたいと

叶えてきたし、払ってきたし続けてきた

この状況が実は当たり前じゃないのに



叶えてきた世代は、そう思わないんです

こうしなきゃいけないという刷り込み意識

それで繰り返して見送る経験を重ねてきて

より一層、こうすべきという意識を強くする



すべてを差し引いても過剰なんですよ

やらせるほう(初めての喪主以外の人)は

正しいことだと説明して全部やらせる



そういう流れをワタクスの両親も

初めての喪主に対してつくろうとした

好きにやればいい、といいながらその

責任の範囲の見方は昭和喪主の常識で

あとで文句をタラタラと言い始めた



やらなきゃいけないような雰囲気を

つくって押し切られてしまうんです

コレが押しつけだとは思ってないんで

悪気ないのがまた厄介なんですよね

このなんとも言えない解決困難な課題



初めての喪主に対して勝手に速度決めて

期待どおり動かせるようにもっていく

コレは葬儀屋などもそうですね



安くしたい思いと裏腹にこういうのも

ありますがどうしますか!?と来る

言われた初めて喪主は押し切られてしまう



その後、なんとか交渉し安くしたが

怖いのは言われてその要求通り払ってきた

過去の昭和喪主世代の常識なのではないか



囚われたかのようにウチの父も疑わず

ハタからみてると必要以上に張り切り

文化祭の実行委員的な仕切り意識を見せる

クチでは自分が喪主じゃないと言いながら笑



昭和、平成、令和となんとなく葬式まわりを

ビジネス化し、高度に定着させてきた流れ

それを当たり前に継承していく姿勢は



それが経済的、時代的に叶った世代に

たまたま居たからですよ、安定向上して

進められたほんの少しの期間の世代のね

必ず無理が出てくるんです、これから



物価上昇、経済的不安、自然災害など

いまより安定した時代に少しだけ続いた

そのやり方を押しつけ気味にしてくる



それで商売になる奴らも否定しないけど

内心は少し異常だとは思ってるはずです

なかには要求するレベルをできない人

やれない人を散々見てきてるだろうから



私たち日本人は、踏襲が好きですから

自分の代でストップさせる責任を回避し

無難になんでも続けると格が高くなると

錯覚してしまう、というか変化の決断から

ずっと逃げてるだけなんでしょうけど



価値観は相当な覚悟で変化を押して押して

続けていかないと実際に変わるまで日本は

時間が相当かかるのは間違いないです



でもこういう常識も時代とともに変わって

ひとつのパターンだけでなく多様な価値観を

認める土台が私たち世代はできたらいいなと



時代に乗るのはラクです、たしかに

でも時代に、はさまれたままツライのは

やっぱりちゃんと主張して変えるべきで

その決断と多様性は尊重されるべきだと



こういう地味だが大事な変化や決断も

変わりゆくなかで必要なのではないか

もちろん昭和喪主世代の気持ちもわかる

わかるけどできない事も出てくるのだから



なんか重めの長文、失礼しました

ちょっとスッキリしたかな笑