千原兄弟のせいじの件で思うのは
いじめられっ子という見方をする
言動への批判、反感と炎上発展か
これはどうなんでしょうねぇ
ワタクスもいじめられっ子的なことを
たまに内容によって書くことはある
正直、過去に書いてるとは思います
いじめられる側にも原因がある論争
これもね、答えはなかなか出ない
お互いに考え方があって直すべきことを
押し付け合うだけで譲らない、謝らない
となれば解決もしないのは当たり前で
どちらかがどちらかの言う事を受け入れ
勝ち負けをさせようとしたらダメでしょ
本質的に隠れているのは勝ち負けさせて
優劣をつけてきた社会勢力の考え方です
どちらかというと、自分は悪くないと
思うスタンスは、いじめられっ子側の
のちの主張に多くみられるように感じる
たぶんね、勝ち負けを意識してるから
仮に勉強が得意だとすると勉強で他の人と
競争して勝ち負けをつけてきた人が多い
親もそういう競争社会で勝ち負け意識を
つけてきた人が多いし、いまは逆に
勝ち負け勢が多数派となってきているのか
逆に勝ち負け意識しない仲良し人情派が
いじめられるような傾向にあるのかも?
だとしたら、哀しい逆転現象ですけどね
相手に対して負けてなるものかと
相手の悪いところを指摘したり責めたり
それこそ論破的な?手法で黙らせる
そして勝ち、みたいな方向に持っていく
勉強は得意じゃないって人はどうするか
むしろこちらが普通の人ですホント
人数的にも全体で考えると勝ち負け勢からは
負けているくせにと思われていそうですが笑
いろんな人と勝負するのではなくて
対話や会話しながら仲良くすることで
お互いに気持ちよい関係を築こうとする
だからベースは勝ち負けじゃないんだ
相手と勝った負けたをそもそも考えず
お互いに仲良くするために、譲り合う
コミュニケーションをはかり調整する
そういう気持ちや精神みたいなのが
根底にあると思うんですよ、これは
いじめっ子も、いじめられっ子も
あるいはそうでない子もホントは同じ
ただ勉強ベースで自意識を形成して
将来のために友人関係の勝ち負けを
意識しない関係性を日頃から築かぬまま
大人に成長したり、学生時代に入って
友人関係を築こうとすると、なんか
テンションが違う、違和感をおぼえて
居心地の悪さを感じてしまうのかも
勉強ばっかりしてると大事な人間関係の
築き方を実践的にやってこなかった感
いじめられた発端となったことの
原因やきっかけが、こういう周囲と
馴染もうとしない協力しない姿勢とか
些細なことだったんじゃないだろうか
勝ち負け勢が逆転して主流となってる
そういう時代になってたのなら、逆に
自分たちと違う馴染み方をしようとする
それが気に食わないみたいな流れも
これはまた忠誠心的なものと違うし
お互いに気持ちよくコミュニケーション
取ろうよ、そのなかで合う合わないは
いろいろとあるし、お互いに成長過程で
まだ理解してないこと、できていないこと
たくさんあるだろうから、失敗して成長する
過程にある段階で、勝ち負けを意識するか?
しちゃならないけど、意識しちゃう感じかな
そこは勝ち負け排除してお互いさま感覚を
持っていないとうまくいかないでしょ?
本来は素直に認めたり謝ったりしていく
これが昔からあったやり方だったはずで
まぁまぁそういうこともあるさと互いに
慰めながら、励ましながら築く関係と比較し
どっちが友達できそうか、仲良くできそうか
わかるとは思いますよ、勝ち負けを意識して
優劣を互いの関係のなかで意識してしまうと
相手が憎たらしく感じたり、負けたくないと
ネガティブでナイーブなイメージを持ったりする
ワタクスは相手と仲良くする前提においては
相手に勝とうとか、負けたくないとか
思う時点で、負けだと思うんですよ笑
これもゼロにはならない嫉妬心だから
いつまでも自分と闘って戒めていく感覚で
最後まで油断してはならない案件です笑
そこで勝ち負けを意識すると自分と他人を
すべての条件で比較する意識に支配される
どっちでもいいや、仲良くいれたらしあわせ
そういう瞬間に勝ち負けは要らないよなと
思っている人が昔は、多かったと思うんです
学歴社会が隅々まで浸透するまではね
昭和のそういう薫り、懐かしさって
争うとかでなくて支え合う、助け合う
勝ち負けの意識しない空間の居心地
それだったんじゃないだろうかと
いじめられっ子といじめっ子の対決構図
これならばお互いに主張して話し合う
それはアリなのかもしれないですけども
せいじは別にいじめっ子ではない、はず笑
むしろコミュニケーションを積極過ぎるくらい
取る感じで、仲間を増やし築いていくタイプ
雑でおおらかで千原ジュニアとはまるで逆で
でも互いに助けられてる部分もあったはずで
言葉が荒くて強いけど、根は仲良し推進派かな笑
だからいじめっ子でない人(せいじ)に
いじめられっ子と言われた人が(たとえ当人が
いじめられっ子ではないにしてもね)
そういう事を言ってはいけないと主張して
怒りに任せ間髪入れず、相手の反論を許さず
倒そうとするのは、ちょっと違うくないかい?
相手と話し合うリズムが無く言い負かすために
怒涛の攻め(責め)を仕掛ける勝ち負け意識
せいじはおそらく昔の昭和のガキ大将的な
ノリを大人になっても忘れず絶やさず
人生で発揮してこれた人なんでしょうね
本来は、お笑い芸人が自分の芯にあるなら
最後は笑いに変えないと笑いで終わらないと
いけない人なのに、ロンブー淳もそうだが
相手のマジメ路線の着地点に合わない靴を
履いて着地しようとするから足もと掬われる
ただ、学歴社会の浸透の弊害がこの
勝ち負け意識を根付かせて、互いに
譲り合う、助け合う気持ちを奪った
としたら、いじめがエスカレートする
変わってきた時代となんかシンクロする
結果的に関わらないほうへ流れていくだけ
関わらないで放っておけばいいと思う反面
もしお互いに仲直りできる道があれば
また違った未来を築ける関係性も生まれる
その可能性を失くしてしまうだけでいいのか
ワタクスがふと思いついたのは
そういう勝ち負けの意識の弊害で
仲直りする素直さや謝る勇気などから
負けないために逃げてないか?って事
私たちの社会全体が気づかぬうちに
そういう昔ながらの関係性の築き方を
勝ち負けの意識に置き換えてしまった
そういう側面があったのではないかと
勝とうとしたり、負かそうとしたり
それを煽ってみたり、いまのイビツさの
根っこにあるのは歪んだ勝ち負けの意識
ケンカをする前にそのケンカは仲直りが
前提の素直な話し合いなのか、あるいは
勝ち負け意識が染み付いた相手を倒す
そういう闘いのものなのか、もう一度
私たちが全体で考えてみる課題でしょうね