大谷翔平がメジャーリーグの試合を
休んで家族のために過ごす時間をとる
至極、当然のことをアメリカで行った
私たちもあらためて当たり前のことを
ちゃんと堂々とやってくれてると
印象に残って主張しやすくなるだろう
日本国内ではなかなか言いづらい事
シゴトに完璧を求め、他人の火の粉は
全力で嫌い、払いのけようとする正義の盾
自分のシゴトが増えることは悪に変換
若干ネガティブな反応を見せると他人は
気分を悪くさせたと思いこんで遠慮する
そういう次元でない話をその次元にする
どうしても社会のこれまでの常識が強くて
理解を得られないことが日本もたくさん
これは変える権限があると言われる
その年代に入っていくと、安定と管理を
意識しすぎてしまうことが多くなるから
小手先のルーティーンのリズムが馴染み
手間やムダを極力排除して進もうとする
それとは別の話まで、同じ扱いをしながら
自分から変えることを好まない傾向がある
変えるリスクを増やさず、安定自体が気分を
安定させてくると、変化がネガティブになる
社会全体にも助け合うような雰囲気が
意外と薄くて、迷惑をかけたくない
カシをつくりたくない(貸し、瑕疵)
自分のタスクで精一杯に埋めて
他人のことはごめんなさい的マインド
自然とつくって肯定されてきたから
自分がやるタスクで自分を埋めることで
他人の影響を被るスキマを与えない
こういうことが肯定されてきたんです
自分の事で精一杯なんでごめんねと
そこに日本人全体に影響を及ぼす存在
大谷翔平が見せた姿、行動を全体が
そして組織がどう受け止めるかの局面
組織の中心の近くから変わり始めるか
誰か象徴的な人が自ら行動で示してみせ
強力な盾となり、その人をシールドとして使い
私たちもそう主張します!と言い始める
良くも悪くも日本人は、誰かや何かで
一歩進んで見せてあげないと前に進まない
その傾向や兆候は、とんねるずの石橋の
話題の根っこにもある課題と感覚と一緒
他人の目や顔色を伺いながら僕も私もと
言わなかったくせに、言えなかったくせに
綻びが生じると一斉にケチャップドバドバ
当時の状況を誰も改善しようとしないで
突発的に状況が変わるとドサクサに紛れて
これも下半「心」露出ではないのか?笑
いじめ問題など、片隅で認識していても
干渉すると損する的な意識が全体を覆う
見て見ぬふりが無言で肯定されていく
いつものアレしてきただけなんです笑
日本人は家族と仕事を妙な心理負担で
天秤にかけて、仕事で迷惑をかけない
仕事を優先することが、他人への気遣いだと
常識化してきた罪があぶり出されていく
アメリカと日本では、家族と仕事を
価値を同列に置くとか優劣をつけるとか
そもそもそういう感覚がないんでは?
家族を大切にする気持ちを選ぶのが
当たり前の国、選ぶまでもない感覚か
家族と仕事を天秤にかけざるを得ない
常識を生んで定着させ好んでしまった国
日本の考えをクレイジーと思うだろう
私たちの深層心理に残る村八分的な傾向
村社会、島国、いろんな閉鎖的な社会構図
変化の少ない安定が精神を安定させるような
大人になったら犠牲になることを学び
身につけていくんだよ、それが他人への
立派な一人前の人間としての思いやりだよ
外国人が理解に苦しむ常識を植え付ける
直すことは簡単ではない、みんなわかってる
主張があっても、周囲の顔色をまずは伺い
「迷惑かけない美徳が絶対勝利する社会」
にしてきた後悔と絶望、井の中の蛙を知る
損得勘定かつ自己責任の果てに生まれる
異常な気遣いとリスク回避の国家構造
行列に並び続け同じものを所望し
自分自身でオノオノで回避してくださいね
それが社会人として大人としての責任
ここに隠された邪悪な心理というか笑
生涯通じて甘受させられるしくみの中に
私たちはいる自覚にすら気付けなくなる
以前にワタクスも書いたけれど日本人は
こういう大谷みたいな存在を利用する傾向
無敵状態の人をシールドに使ってその背後へ
完全にタマヨケにできると確信すると
社会全体に対してシュプレヒコールする
こう思ってたんだ!これが正しいと主張
いままで、自分から言わなかったくせに
言えなかったくせに、は棚に置いて
形勢逆転して追い込んでいくこの怖さ
風向きを見計らって損をしないよう
都合よく主張を変えるのではなくてね
最初から胸を張っていえない雰囲気の破壊
こちらができないと永遠に解決はしない
そもそものそういう構図を招いた社会常識
閉鎖的、自己責任、リスク回避の日本人
そうなってしまったあらゆる角度の原因を
ちゃんと受け止め、長い年月をかけて
大人が根底を覆してまで改善する腹を決め
必ず実行するくらいでないと変わらない
ここをずっと避けてきたからです
何も悪くないと胸を張る完璧な大人自身が
こういう典型的な人自身が、実はその張本人
仕事の問題と家庭や人生の問題を
迷惑をかけないというレバーを引き
自分に負荷をかけて山道をのぼる
それでもみんな登ってきたんだから
という意味のわからない正当な理由、笑
歩けなくなったら自分で責任を取れ
軍隊以前から日本人に流れる感覚かな
厳しさのなかにある美徳、その中で
やりきる達成感とミッション的な機運
それを拭いきれず上司や上官の命令的な
上下関係で許容させてきたからでしょう
そこを変えるとなると全部変えなきゃ
そうなると、いま動かせているものが
まともに動かせなくなる、だからこのまま
いまのまま惰性で動かし続けるしかない
自分たちはこれでいくがあとのことは
あとの人に任せるよという、体の良い逃げ
背景にあるのはこういうイメージかな
これを代々、先送りしてきただけのこと
日本人はずっとこうやってきてる罪
重大な瑕疵をつくり、貸しをつくらせず
言ってくれたらいいのにと言いながら
言っても何もしてくれないから言わない
わかってるんです、気づいてるんですよ?笑
その孤独、個別の閉塞的な状況を誰か
救世主に求めるしかないのが日本なんだと
今回の大谷の行動によってしか日本人が
自分たちでは動かすことができないこと
また改めて知るんでしょうね、きっと
すべての人にその恩恵が行き渡るには
相当な時間と周囲の偏見の排除が必要
何かを感じ取って自分たちから動かし
大谷シールドを使わなくても動ける
そういう大人があふれる国になれたら
そのとき初めて、日本は変わるのかな
なんだろうな、やっぱりこの国は
学校で手をあげて自分の意見を話す
それをめんどくさいとか恥ずかしいとか
遠慮して過ごした世代がまだ多すぎる
そうしなかった世代も徐々に上の世代の
常識の強さに飲み込まれていくんだろう
学んだことが上に否定されていくような
それを飲み込むことが社会人的な奉公
学校の先生もカリキュラムがすべて
時間内にこなすことを優先したからか
教えなきゃ、変えなきゃダメとわかってて
それでも直さなかった末に悪癖がついた
こういうところでちゃんと意見を主張し
話し合い、互いに理解して解決しあう
小さい頃からやってこなかった罪も大きい
罪を重ねた日本の、積み重ねでしょうね