万博をどう捉えているだろうか?

昔ほどワクワクもしないのでは?



行きたいかと言われると混雑の中に

あえて行きたいとも思わない人が

ほとんどではなかろうかと



なんでも揃うような世の中で

人々の志向と嗜好、そして思考は

当時と変わらぬものだろうか?



未来を便利にする方向だけではない

いわゆるSDGs的なイメージで進める

理想的な考えに基づくものもある



あるいはここでなければ体験できない

世界各国の文化に触れる機会であり

それは技術の進歩とは一線を画すものだ



もし行くのであれば名前しか知らない国

名前すら知らない国の文化を通して

相手を知る、理解する機会としてがベスト



テクノロジーの進歩は追いかけると

意外ともうワナなんじゃないかと思う



もちろん私たちもその発展の途中にいる

今後、未来がどれだけ実現するのかも

その旅路の途中であり、一部にすぎない



でも大事なモノの見方を忘れ学べなくなる

そういう危機感すら逆に感じる昨今

手ざわりをどんどんなくしている人間社会



なんか妙に急がされている雰囲気

いろんな思惑が潜んでいるのだろうが

こちらとしては特に欲しいと思わない

そんなシロモノを買え買えと薦められ

神輿を担がされている気分と似ている



空を飛ぶクルマなど現実になりそうだが

よく考えると架空のアニメやCGの世界で

もっと性能の高いものを当たり前に

見れる今と昔では感じ方も違うだろう



期待しているが期待ほどすごくない

って受け止めは少なからずありそう



いまのリアルではコレが限界、現実だと

ちょっと期待したわりにテンションは

上がりそうにないのが正直なところか



そこで初めて触れる情報や内容として

落差があった昔とは違うからでしょう



いまはネットである程度の道まで見え

想像がついたり既に可能性を何処かで

見聞きしていたら新鮮味は薄れてしまう



万博会場での運営の不手際も含めて

現実社会でスムーズに慣れすぎていて

混雑や不手際に対するストレス耐性も

恐ろしく低くなってしまっているので

こんな体たらくなら楽しくないともなる



昔ならそこの会場内が一番の最先端で

ここでしか体験できない事と普段の生活の

落差が大きかったから我慢して待てるが

現代はどうだろう?想像してみてほしい



現代人の日常が進化しすぎて会場内との

驚きの落差はやはり小さくなってるのでは?



ワクワクがあったのは見たことない事や

想像した事ない未来のテクノロジーが

インパクト強めにあったはずだからで



現代の万博が想像の域を超えていても

あまり現代とのギャップが少なくて

だからいろいろ差し引きしても混雑を

受け入れて我慢してまでとは思えない



むしろ行こうとするモチベーションは

今後2度と味わえないかもしれない

万博というブランドを一度体験したい

そこにぶら下がるだけではないか?



冷静に考えると子供たちとて、である

それほどワクワクするものを日常と 

比較して落差は少なく、想像を少し

超えるくらいで、待ってるストレスのほうを

大きく感じても不思議ではない



子どもは正直だから、インパクトが大事

親たちは一度体験させたい思いが強めで

子どもに体験させたい方針に沿うイベント

っていう教育的体験の気持ちが強いか



自分も過去、親が良かれと思って

自分に体験させようとしたほとんどは

記憶があいまいなものが多く、親が

思うほど子どもは満足も少ない事が

多々あるというのが定番ではないか



私たちはグローバルな視点を日常で

意外と体験していないし、利便性を

追求するビジネスの中に落とし込まれ

便利な製品を手にして使い満足する



しかし世界に目を向けると私たち日本人が

過去に通った道をいまようやく走り始め

より発展させようと目論む国もあれば



自分たちの文化を守りつつ、相手に

とにかく自分たちを知ってほしいと

そういう文化に触れる事こそが大事で

これを忘れかけてるのが私たちな気が



なんかもうね、最近は耳ざわりばかり

手ざわりは、だんだんというか

どんどん遠ざかっていますから人間は



大事な事は、良かれと思う流れの反対

対岸の瑕疵に触れ、過信せずに戻る道

だからこれ以上便利にしすぎたらダメ

ワタクスはそんな予感が強くて仕方ない



相手の途上国からどんどん遠ざかる

大国や先進国ばかり見てるけれどもね

上ばかり見て周りをないがしろにして

既に上位から落ちかけている私たちは

その周りの相手にミクダリハンされる



未来を見越していくならば周りを大事に

上ばかり見ていても、いざというとき

スカされてしまうくらいならば



耳ざわりの良い未来の神輿ではなく

手ざわりの良い懐かしく温かい相手を

大事にしていく見越しも必要だと感じる



不便でも面倒でも人が触ってる温もり

人が丹精込めてる手ざわりなものを

いま逆に大事にしていくべきかなと



ミャクミャクは何を見つめてるのか?

欲に取り憑かれ視点の定まらぬ私たちの

未来を暗に示しているのではないか