新宿野戦病院というドラマで

放送後半で新たに流行し始める

感染症をシリアス展開で次回へ



時系列では同じ時間に始まった

他局の水曜日のダウンタウンでは

感染症に対する意識をイジるネタが



こういうキセキは何かを考える

ヒントになるはずだと感じますね

その瞬間生まれた現象を楽しめるか



個人的には、水ダウを流し見で

観てから(水ダウのネタは直視が

しづらい年齢になってきたので笑)

TVerでドラマのほう観たのでね



これ、もし逆でドラマから水ダウの順で

観てると印象も変わる人もいたかも?



人間が情報に影響されるバイアスって

ヘンな話、やっぱ「面白い」現象だなと

面白いは笑うでなく興味あるですよ?笑



ただ、笑いのなかにシリアスを混ぜ込む

という手法?では共通する部分もある

これは捉え方で異なるが、個人的に被る



シリアスな中に急に笑いを入れても

実はあまり人には響かないことが多い

なんとなく想像つくでしょ?



むしろ逆に、笑いベースの中で急に

シリアスをストンと落とし込むと

意外と印象に残るし、わりと素直に

受け入れやすい、そこを狙っている



人に伝えるためには

シリアスに笑いをイン

するよりは、

笑いにシリアスをイン

するほうが、受け手としては

若干ハマりやすい狙い方か



マジメのあとにオフザケのとき

オフザケのあとにマジメのとき

たぶん印象は同じではないはず



今回は奇跡的になのかウラでは

示し合わせた感じなのかは知らぬ笑



でも日本人の意識として少し

コロナなど同じ感染症を扱う問題

日本人の過剰な反応に対して

悩まされているのは日本人全体

その問いかけなのかなと感じた



批判する側もわりと無自覚だし

自分で明確な答えを出せないから

国の出す指示に渋々従うのみ

この国民性の課題にどう向き合うか



意見の数が少ないか多いかでない

人の命の重さで思いの差が出るが

かといって、どちらの思いが

重いのかを即判定するのは危険だ



どちらかにしてしまいたい

気持ちもわからなくもないが

どちらかにするのではなく

同時に両方を止めないことが

高度で難しいけど大事なのかな



日本人は自己決断と許容に

苦手意識あるから不満不安強め

どっちかにして欲しいと要求

そうやってクリアにさせときたい



正当性をタテに主張し競争相手に

強い態度で抗議する姿勢を出すが

2を必ずしも1にしなくていい



2つのうちどちらかを選べと

言われている設問とは違うんですよ



裏を返せば自分で決断できないから

ナーバスな感じにならざるを得ない

どっちかにしてよと暗に要求してくる



その批判や反感を大きく伝え広める

既にマインドセットされた同調圧力

コレと相性抜群なので相乗効果発揮



不安なイヌほどよく吠えますよね

不安だからこそ相手を威嚇する



そして今回面白いのはどちらも

私たちにどうする?今度は?

あなた自身はどうしたいの?



それが大事なんだよっていう視点

真っ向から問いかけをしてるのかな



私たちはSNSなんかで発言する

私はこう思う、こう考える

個人の思いは、様々で多様である



その前提を少数派の正義に全てを

片方のみに合わせてしまうと

立ち行かなくなるのにしてしまう



それを体現したのが日本のコロナ

コロナだけではないが多様な前提の

その上での平等とはとらえない



それはそれ、これはこれの上での

多様性を認めつつ、同時に生かして

どちらかを殺さずに両方動かすのが

本来のあるべき姿のように思う



だがこれまでの日本は全て止めて

片方の思いに重きをおいて動かし

全体が停滞や足止めを食らうとしても

全て同じ針の穴を通す要求を課した



今回は二度目に遭遇した場合

私たちは過去とまた同じことを

繰り返すのか?と問いかけ皮肉る



今のままではまた同じ繰り返し

そのほうが正当性があり統制が

きくから、言うことに従うから

日本人だから、成立する話である



他の国のイメージ、主に欧米ならね

相手にAを主張するのは当然

だが相手の主張するBを封殺しない



Aと対立するBを生かしておいて

両方の色を際立たせるかのように

どちらかを手に取り選べる状況

この環境を当たり前として対処する



だから心の中で反感はあっても

相手の主張に一定の理解と愛情



プロレスでいうヒール役を置く

意味を知ってる、必要だから居る

みたいな感覚の延長のニュアンス



居るから一方に寄らずに俯瞰を意識し

バランス取れたりする視点を大事に

しているような気がしますね



ちょっと表現や具体性に乏しい笑

あまり詳しくないがディベート?

みたいな感覚を当たり前に馴染ませ

育ってきていないからなのかなと



おそらくは相手を尊重する姿勢が

本当の意味でできない環境を長年

日本はつくって進んできた弊害だ



まずは不快に感じても相手の立場で

そう思う、感じる気持ちに寄り添う

思い出してみるとわかると思う

なぜ、他の国(極東アジア系を除く)が

あれほど早くコロナ禍から脱したか



それはどちらかに合わせずに

同時に動かす意識が当たり前に

備わっていたからではないか



国民性の癖を変えるのは容易でない

しかし、この点で他国に対しては

大きく遅れをとっていることを

私たちは自覚し、考え直す時期にきてる



って感じたことを記録しておきます笑