他人への加害は楽しめる的な
そういう心理ちょっとある。
最近のネット記事経由はみんな
そういう嗜好で埋め尽くす。
そう言われれば、楽しんでると
相手には、捉えられなくもない。
ワタクスも、正直、無くはない。
ラヴィット!なんかのビリビリ。
冷静に見ると虐待だ、みたいに。
テレビでやるべき内容じゃないと
言いたいやつもいるんでしょうね。
アレも昔から出演する周囲も
サポートも含め「番組として」
わかってるからこそ成り立つ。
上質な笑いではないが
好きですよ笑、ワタクスの脳では。
以前も書いたけど、懸念です。
すべては懸念するがために
消極的にしてしまう流れ
みんなが金太郎アメになる。
その後の責任は誰も感じない。
自分でコレダメでしょ!って
言いながら排除したらあとは
勝手にやれば?んなもん知らんし。
これだとただ、目先の不愉快を
取り除くクレームを入れて
自分だけスッキリして終わり。
このパターンで取り締まって
面白くないと叫ぶのはズルイ笑
少なくともコレで楽しんで
笑えている人も実際にいる。
それを楽しむはずの、逸失利益は?笑
まぁラヴィットは、あからさまな
中年世代狙いは明白なんですけどね。
役割や座席より人口が多い世代で
私たちのガス抜きになってるのかも。
ワタクスもわかるネタには笑うが
知らんネタやジャンルには
スンってしてますよ笑
この寂しさってこちらで
自分の側で処理しないと。
それが普通なんですよ。
以前書いた内輪ネタへの反応と
同じような心理があるのかな。
自分に合わないとクレーム入れる
それはね、まだまだ甘いです笑
それで楽しむ人がいるんだから
その人たちが楽しむのを
邪魔しちゃいかんと。引く美学で。
バラエティ番組の内容に関しては
昔からイジメに繋がるとかもね。
単純に外形だけ真似る行動は
個々の責任とブレーキ感覚に
任せるしかない部分もある。
こういうテイで番組を楽しく
面白くしようとしてやってるのを
昔は言わなくてもわかってたし
少数派のためにすべて動かさない。
結果的に文句言ったもん勝ち。
彼らにしてもガス抜きでしょう。
けしからんと叫ぶ人は多いはず。
でもその声は昔からもあったはず。
見えなかっただけ、取り上げずに
みんな知る機会がなかっただけで。
ノイジーマイノリティへの対処で
彼らがどこまで言う権利があって
それをどこまで受け入れ改善するか。
言うのはいいと思いますよ。
防げない。ここまでいくと無理で。
それも発散のひとつであるから
彼らも、言うこと書くことで完結。
ご存知のようにそこで完結して
あとは知らん顔になるのは
各自が発散することで自分の
ターンが終わってるから。
それをマジメに受け入れすぎて
送り手側は一応、受け止めないと
という姿勢を見せないとね。
スポンサーがうるさいからと。
スポンサーは枠を買ってるだけで
番組を支援してる、賛同してると
そういう理屈は立てないほうが
お互いに得策ですよ。
ミスリードの果て、ガンジガラメ。
そのテレビ等で映像を観た側への影響
子供たちなどに、どう解釈させるかを
批判する側も正直、わからないから。
対処できないことを放送しないでと
そういう理屈になるんでしょう。
目の前に出されても答えを
明確に自分では出せないものを
世間に出してくれるなと。
それはね、世間では我慢しつつ
考えることを放棄しないで
話し合いを続けることですよ。
諦めて排除して終わりって
一番やってはいけないことで。
実際に短絡的に真似てみて
イジメに繋がってることも多い。
でも親もこう解釈すべきという
理屈に導く言葉やアイデアがない。
私たち中年世代も小さい頃は
下品な番組を観るなとは言われた。
でもテレビでやるから観てましたよ。
かといってイジメに繋がる行為か?
って思うとそこまで考えていない。
で、マネするか?といったら
同じ道具や同じ状況があっても
これは自分等がやるのは違うな
ってブレーキが効いている自覚が
ありましたからね、実際に。
今の子どもたちもそうでしょう。
いまは同じ道具が揃えられたり
してしまう時代で一番厄介だが。
基本的にコレ、実際にやったら
ダメだよなというブレーキは
自然と生活やしつけの中で身に付く。
けどどんな時代にもそうでない人
いるんですよ、必ず。ゼロでない。
どこかであきらめざるをえない人が
生まれ、育ちそうなることもある。
日本人は懸念あるものを片っ端から
取り除きゼロにするのが癖になってる。
この笑いの嗜好が日本人独自のもので
世界中からは批判もあるはずだとも
全部わかってますけどね笑
かといって、イジメに発展?
それは各自の家庭や考え方を
子どもに説明して伝えるべきこと。
親が自分の責任で体当たりで
守っていく腹積もりがあるかどうか。
ダメなものはダメ、理由は?
って問われてもうまく説明できない。
そういう親が増えたからでしょう。
答えを持たない大人が増えて
答えを考えることが、日々に忙殺。
もう諦めて流れに任せるほうがラク。
自分が自信を持って子どもに
諭すだけの言葉を育ててこなかった。
その時間も余裕も許されなくなった。
ツールの進化に常識が、社会が
追いついていけない部分もある。
子どもたちにもまっすぐに対峙し
自分の言葉で説得を試みる。外国は
その責任感がキチンとあるような。
これはテレビではやってるけど
周囲の友達や同級生などに
したら相手はどんな気持ちになる?
考えさせて答えを自分で出させる
親も明確な言葉での答えを
自分を持って、伝える用意があって。
ワタクス中年世代の親たちも
明確な誰もが納得するような
言葉で諭していなかった。
けど、そのぶん体当たり。
時にはしつけの範疇を超え
本気でぶつかってきた。
その気持ちをこちらも感じて
やっちゃダメなんだと理解した。
こういう過程を経ていない家庭が
潜在的に増えているのではないか。
いまは封じられる行為だから。
自分がイヤだった言い方や
しつけの範疇を超えた行為は
自分の子にはしたくないという
気持ちもあったからではないか。
でも大人はそこであえて自分が
子どもの頃にされたことを
悪者になってでも、なのでは?
やらなければならない責任に
意識して足を突っ込まないと
いけないのかなとも思います。
イヤだったけど親になったら
イヤなこともあえてやらなきゃ
それは子どものためにも、と。
かつて自分の親がしたように。
そこから逃げやすい雰囲気を
社会全体で選択してきたのかなと。
言葉で諭せ、でも各自でねと。
で、誰も答えを出せないまま。
その事を意識して議論せず
ウヤムヤにしてきたから。
時間も生活や仕事に奪われて。
子どもに嫌われるのを恐れて
子どもに合わせてしまう。
そう自覚しながらも悪者には
なりたくない、なりきれない。
そうやって逃げやすい雰囲気が
できてきて、親が手をあげるのも
世間的に封じられていくし
言葉を持てずに諭せないまま
流れに任せるしかなく強く言えずに
そのまま育ってしまった。
話し合い言葉を見つける努力を
みんなで主体的に議論し続ける。
誰かの意見を聞く、参考にマネでは
次のステージには行けない。
たとえ同じ理屈にたどり着いても
それを自分でノーヒントで見つけないと
自分の言葉にならない。
体験と知識の違いですよね。
嫌われてこそ親だ、くらいの
腹積もりを持って育てる意思が
日本人には欠けるようになった。
その方面の問題に原因があると
思ったりもしてます。
ワタクスは未婚で子供もいませんが
だからこそ感じることでもあって。
当事者以外のそうでない視点からは
そんなふうに。無責任でしょ?笑
そういう視点から、もっと議論が
みんなで各自が主体的に考えること
広がればいいのになと思いながら。