何事もけしからんと叫ぶ声って

基準は何なんだろうね?



その人間の過去、常識、環境

法律なんかも含めたルールでしょ。

究極を言うと、外野の目線。



それが一定の基準としてあるだけ

個別に違うことは当然ある。



でもけしからん派は同じ基準を

相手に充てがい、善悪を判定する。



相手の目線からは見ようともしない。

自分の範疇で善悪で判断、行使した。



それが自分ができること、そして

間違っていないことの確認、なのだろう。



自分がやったことは間違っていない

そう言える根拠があれば責任は負わない。



外野にいればね。でも現場にいると

違うというのは想像できるでしょ?



けしからん派のほうが無難で

正論っぽいから強く見える。



でもそっちを選択しすぎた結果。

為政者は間違っていないと胸を張り

現実良くならないことは、もう

どうしようもないこと、仕方ないと

最善を尽くした、と述べるにとどまる。



その最善は、現場で協力しあえば

できそうなことをやろうと試みて

それでもできなかった、って最善か?



互いの仕事をジャマしない精神は

当事者の気持ちになれずに終わる。

実は自分の事優先を無意識にしてる。



平時において私たちは自分の基準で

自覚ないストレスの解消のため

けしからんって言うんですよ。



「炊き出しカレー山本太郎」もね。

現地の人に誘われて、とある。



食べた外形だけみて、けしからん。

そもそも行くな、ジャマするな。

これは外野の意見として、正しい。



この災害時の鉄則みたいなことを

踏襲することを優先していないか?



当事者の感情やストレスを上回って

災害関連死の原因を取り除かずに

自分たちの方針、法律、手順が正義に。



来てくれてありがとう、の気持ちで

いっしょに食べましょうよ!と

誘われたのであれば、どうだろうか。



あり得る話ではある。うれしくて

誰かに話したくて、話さないで

自分の内側に閉じ込めておくのは

辛くなる、だから少しでも外に出す。



でも見渡せば、みんなが同じ被災者

ぶつけられる相手なんかそうはいない。



無下に断ることで守る体裁もあるが

そのもてなしたい気持ちに応えることも

実は、相手の気持ちをラクにする。

必ずしも断ることが正しいとは限らない。



常套句で、ルールだから受け取れない

食べたらいけないんですと断ることが

当たり前にあるのだろうけど、それは

山本に感謝したい相手の気持ちを挫く。



いろいろと気持ちを汲んで山本が

食べた行動は、本当に悪いことか。

災害時の行動も熟知してるだろう。



おそらくそれも踏まえた上で

まだ効率的に早く対処できる

その可能性が見えているからだろう。



相手の厚意を断ることによって

ガッカリさせたくないという山本の

相手への誠意の表し方でもある。



そのあたりは推測でしかないが

来てくれても迷惑だとか、被災者の

大事な食事を食べるのはけしからんと

決めつけるのもなんか違う気がね。



支持者ではなくても、避難所に

来て現状を誰かに話してそれを聞く。

それだけでも相手は、被災者は

その気持ちが和らぐと理解してる。



当事者は誰が相手でもいいから

この現状を伝えて善処するために

動ける人が訪れてくれたのであれば



話したいこと、伝えたいこと

そらぁ、たくさんあるでしょう。



来てくれたことがうれしくて

なにか気持ちとともにお返ししたい

そういう気持ちから素直に出た言葉で

いっしょに食べませんか?と

誘われて食べたなら。



ワタクスはその状況においては

単純に悪い行動、考えられない行動

だとは思えないんですよ。



ルールや常識も大事ですけども

現場にいる人の気持ちは現場にいる

その人にしか、わからないこと。



ありがとうの気持ちを伝えたくて

人として何かもてなしたい気持ちを

表したくて、そしてその被災者たちの

気持ちを感じ取って無下にできない。



それでいっしょに食べることによって

少しでも気持ちが晴れ、ラクになった

そういうことであれば、単純にマナー上

悪いことだから食べるな、とは言えない。



ワタクスは少なくともそう感じました。

これも想像でしかないですけども笑



非常時にルールどおりが必ずしも

正しい、正解だとは思わないから。



ストレスが高くかかった状態の現場で

そこにいてなんかの助けになるのは

必要なモノやしくみだけではない。



来てくれたことがうれしいというのは

入院して一人ぼっちでさみしいとき

来てくれた人にありがとう、と感じる

あの気持ちと似ているのではないか。



ワタクスは入院していたときがあって

来てくれてうれしかったあの気持ち

いまでも覚えているし、忘れられない。



必要な物を供給することも大事

そのためにジャマしないように

整えることも大事なことだ。



だがその搬入やニーズに合わせて

協力しながら整えることも大事。

その細かい調整は指示系統で

上位にある者が動いて指示を

実際に出さないと現場は動けない。



だから政治家が現地に入って

しくみやルールを微調整する

それが最速に最適を生むんですよ。



今はしくみを万全に整えれば

あとは待っているだけしかできず

待っているあいだの人の気持ちに対し



誰も寄り添ってくれないドライな

しくみが機能している満足だけでは

ソレ、低体温より冷たい対応では?



血の通った行動や気持ちを感じて

人間の心が動くことってあるでしょ?

その気持ちがうれしくて頑張れるって。



非常事態の状況において、外の人間が

できることはジャマしないことだけでは

ないだろうと、本気で思ってます。



いろいろとわかったうえであえて

そこからもう一歩踏み込んだ対応が

できる、すべきだと確信しているから

こその山本の行動、提言なのかなと。



しくみを整えるだけでない

しくみをジャマしないことだけでない

そこから更なる可能性がある

最適化をするには政治家辺りが

実際に要請、指示をして動かす。

見えているのはその景色でしょう。



人の気持ちや感情に可能なかぎり

応えてあげたいと思うことは

政治家以前に、人間として大事なこと。



山本の態度や言い方などを

気に食わないと思う人もいるだろう。

ケンがある物言いもタマニキズだが。



でも、やろうとして応えようとして

本気で動かせないしくみを変えて

動かそうという気持ちは伝わってくる。



それが被災者たちの願いにも叶う

動かし方なのであれば、なおさらで。



けしからんというのは外野が多い。

常に外野が正しいとは限らないし

客観的意見も大事で、知見を得ている

意見を重視することも大事だと思うが。



現場は現場で、正しいことだけで

進むとは思わない。その現実は

外から制御すべきことだろうか。



自販機を壊すかたちになって開けて

飲料を持ち出した、というのもそう。

最初の記事では外形は、けしからん。



管理者の学校の許可、了承を得たうえで

壊して被災者に非常時対応として配った。

実はそうだった、らしい。



現場にいる当事者だから取れる行動

批判を恐れることなく動いたことは

なかなかできない立派なことだ。



人には、状況には、それぞれ事情がある。

それぞれ対応が異なっても不思議ではない。



ルールに縛られて、行動できないしくみ

人がいるのにマンパワーを活かせない

そのしくみに微調整して動かすのは

上位にいると見られてる国会議員

しかいないのではないだろうか。



これも日本の社会の悪いところに

見えてこないのだろうか。



外野も当事者になればわかるだろう。

けしからんという外野の声が

いかに空虚なものかということを。