おそらく、おそらくですけど。

ほとんどの人間は、隠してるが

他人がうまくいってるのが

なんか気に食わない。



うまくいっていない人も

そして、うまくいっている人も

なぜだか自分よりも

うまくいっている人を

どこかで快く思わない。



万事うまくいく人間は

この時代もやっぱり

限られてしまっている。



いくらツールが発達したとて

動かすのは人間の気持ちでね。

嫉妬は怖いんです、地球上で最も。



だとすれば、嫉妬の逃げ道を

私たちは塞がないことが一番大事。



そして他人を責めることから

自分でやることにシフトしていく

その場をつくることだろうと。



正しさばかりを追求していくと

どんどん塞いでいることに気づく。



果たして、仕方ないと考えるか

角度を変えたら改善策はあって

可能性が広がっていくのか。



すべての椅子が不足してる。

椅子を人数分用意できないと。

でも惰性で、世界は回り続ける。

座れない人を置いてけぼりで。



考えてみればそうなんです。

時代が積み重なっていって

人が増えました、しょうがない。



増えたということはいままでの物事

あらゆるサイズ変更が発生してる。

この状況に対応しないことには

我慢だけでは、解決に向かわない。



電車一両に100席あったとして

乗る人が増えても電車のサイズが

変わらなければ座る人が増やせない。



座席を増やして電車一両は

入れる人数は少なくなっても

電車を増やす発想にならないか?

そうすれば座れる人は増えていく。



正規、非正規の社員の問題も

電車一両が変わらない前提で

みんな動かせないことだと考える。



前提を崩せず逆に座席数が減り

立って乗る、乗車率高いままで

乗り込む人は、まだ減らない。



座っている連中は自分の目的地

終点までは譲るつもりはない。

自然淘汰で減っていくのを

横目に、したたかに座り続ける。



新しい電車をつくり座席数を

増やす方法に対しては

みんなが動かないと始まらないが



いまの私たちはどうだろうか。

しくみが固まると、それしか

方法がないのだと思い込む。



日本人は特にこの傾向が強い。

だからみんなが動くキッカケと

仕掛けが最重要なのだろうと。



我慢して乗り込むしかないと

立って長時間揺られてに耐えて

反抗しなくなって、受け入れる。



その不満のイライラ解消が

ネット上に集まってくる。

我慢してるのに、耐えてるのにと。



憂さ晴らしの対象を探し始める。

すぐにいい感じの対象が見つかる。



他人がいい感じにアピールしてる

そのサマが気に食わないのだろう。

なんだ、リア充とは、なんぞやと。



SNSで写真や動画をあげながら

口に出さずとも、いいでしょ?コレ。

無性に腹が立つ気持ちが湧く。



それは自分たちもしたいけど

自分の席がない、こうしたいが

できないから、悔しい、虚しい。



アラが目につく、腹が立つ。

探しているのかもね、無意識に。

単純に感情を抑えるのが苦しく

どこかで放出しないと苦しくなる。



イライラしてる人間が放つ

畳み掛ける言葉のナイフは

実に鋭利で、激しく、力強い。



一部の人間はこの気持ちを圧し殺し

他人を褒めることで、他人の活躍を

擬似体験することで代替している。



行儀の良さを保つことに必死だが

心の中の負の感情は解消されず



匿名性の高いゾーンでは

正反対の言動で攻撃的になり

ストレス発散を繰り返す。



自分たちでやることもできず

選ばれた人たちに限られる。



選ばれた人にならないと

主張も実行もできない

しくみのなかに日本人は

ひしめき合うように暮らしている。



ただ暮らすだけになっても

自信がない、自分ではできない。

参考書がない状況で立ち回れない。



本当はみんなで協力的になって

分担してそれぞれが動ける場が

自然につくれる自信があれば。

その環境ができるようになれば。



やってる人もいるが

正直言えば物足りない。

みんながオオッ!と

コレだ!と膝を打つまでの

パンチが足りなすぎる。



結果、その他大勢は

普遍的な窮屈に漂うだけ。

十分な魅力がなくありがちで

ワンパンチ足りないから

シラけてしまうことに。



全体としては、完全に

そういう場は不足したまま

絶望。やる気も失ってしまう。



選ばれた人以外はいいねと

相手を褒めてあげるしかできず

ジャマしたり、否定するならば

だったら「去ね(いね)」と

なる構図はもはや王道パターン。





多くの人に主体的になれる場を

意図的につくれば、鬱憤は分散

そうすれば、少しは緩和する。



1ヵ所に集まり、何の利益もなく

自分では、他人を見るだけで。

おもしろいはずがないでしょ?



むかつくけど何もできない

してはいけない、認めない

黙って観てて、褒めてとは。

随分な態度ではあるまいか。



不満はなくなるはずもない。

かえって溜め込んで爆発する。



その結果として多くの人が鬱屈を

溜め込んでも、それはガマンだと。



既存のしくみを拡充もせずに

スモールライトを浴びせられ

窮屈とガマンと犠牲の上に

成り立つ日本は変われない。



あてがう場をつくると

有利な立場にいる人たちが

有利じゃなくなるから。



他に行ってくれとか

文句つけないで、だけでは

解決するはずもない。



やりたいことができずに

やりたくないことをして

生きる、だけの日本人。



やりたくても場がなく

場を得るためには競走し

狭小住宅にすし詰めになり

勝ち上がらないと、誰も

関わらせてもらえない。



日本の現状のしくみ、常識では

この場はつくれないだろう。



でもつくるとストレスの矛先は

確実に分散されていくし、

確実に流れが明るく照らされる。



すぐに変わるかどうかは疑問だが

目的と自分でやる喜びは雰囲気を

明るくして、未来を照らすだろう。



文句をつける多くの人は

選ばれた人が改善するまで

何もせず順番を待つしかない。



ここを変えたらどうなのか。

文句をつけることしか許されず

我慢させ並ばせようとしてるが。



正しく、キチンとやるために

選ばれた専門家たちがやるまで

動いても触ってもいけないと。



いろいろと制度を整えすぎて

不満があっても待ち時間が増えた。

規定どおりやるかもしれないが

いつだってタイミングが遅い。



専門家が処理しにくるまで

私たちは文句をつけながら

でも我慢して待つしかないのだ。



すごく非効率極まりない。

でも正しくやることが優先され

どう足掻いても待つしかできない。



与えられなくてもいい。

割当はいらない。

ただ自分で石を拾うこと

石をどかしてもいいはずだ。

私たちの意思はあるのに。



それに対して許可を得る

不自然さが理解できない。



勝手にやられては困る、

アト処理が面倒になるから

手順があるので従って動けと。



日本人はまだ諦めてはならぬ。

日本はPCの不要なファイルのように

ガラクタが変わらず残されたまま。



削除してスッキリさせたらいい。

できないと思った領域が開放され

やれる自信が自分でも見えてくる。



本当は私たちがやれる場を

広く取れる領域は絶対にある。

置ける椅子が増やせる場が

そこに必ずできるのだから。