イニエスタが神戸を退団。

日本と欧州のサッカーの違い

今さらながら改めて言われても

直せる気配がないんですよね。



これは国民性が絡んでいる

なかなか修正が効かない習性。



日本人はなんでもそう。

習熟していくと数をこなす競争。



こなすのに飽き足らず今度は

ラクにできるようにしたり

高度化して機能美を追求する。



どこか相手を置いてけぼりにして

自分のスキルやパフォーマンスに

焦点を当てすぎてしまう。



ロジカルで機械的で洗練された

パフォーマンスを好む傾向があり

人間的なミスを許容しなくなる。



以前にもワタクスは書いてますが

いくら足元のスキルがうまくなり

体が強くなり戦えるようになっても



相手と戦っていて想定外のことが

起こると、その練習していないので

対処方法がわからず固まってしまう。

練習や準備という発想も実は違う。



みなぎる自信もプログラムされた

パターンと知識と準備があるから。

でもそこを崩されるとメンタルは脆い。



ここで活きるのは小さい頃から

こういう時どうする?と当たり前に

考えて話す、行動することを

「互いに」やってたかどうかで。



片方の人だけやっていてもダメ。

お互いができるからこそ

相手を理解しようとするわけで。



相手がいて、相手の存在ありきで

相手がどう思い、考えているか

探ることを、自然にできるんです。



それ当たり前でしょ?ってのが

外国人の感覚なんだと思うんです。

そこが重要なのかな〜と思って。



ナチュラルな行動、考え方の種類を

「勉強しないといけないもの」

と思い込む。たぶんそうじゃない。



でも日本人はそう捉えてしまう。

スキルを身につける、というように。

違うんだよね、根本から違うと思う。



たぶん、外国人は勉強する気持ちで

身につけたものではないんですよ。



それを真面目に勉強しようとするのも

また日本人らしい解釈なのかなと笑



私たち日本人はなんでもそうでね。

やることが決められていると

それを忠実にこなすことに集中する。

こなすだけで成果が出る体制をつくる。

想像したら、そうじゃないですか?



だからこうすれば、こうできる場が

待っているから、あとはその競争に

勝って自分で勝ち取るんだって流れ。



ある意味で考えなくてもよい状況を

AI出現以前からアナログでもやってた。



常に人間の機能美を追求しすぎて

単体でアクシデントに見舞われると

プログラムされていないがゆえに

行動できずにフリーズしてしまう。



なんとなく相手の想定外を

想定していない機械的な日本人の

イメージ伝わるとは思うんですよね。



そこを理解しイメージできたうえで

日本のサッカーがどう見えてくるか。



決まり事をつくってこなして

こう動いたらこうする、

こうしたら次はこう動く、

みたいに叩き込む。



観てる私たちでさえ、それを

良しとしてしまう意識がある。

サッカーに限らずですが。



ボール持ったら攻める。

ちょっとラクしようものなら

なぜ攻めないんだ?

練習してきたことをやらないと!

言われてるのかもしれない。



言われるのが怖くてジッとできない。

相手選手も日本人なら同じで

守備にいかないと怒られる、外される。



Jリーグでこのテンポを

生み出したのは、日本人が

こうしないと責められるから。



その責めを回避するために

自分できることを間髪入れずに

やるしかない状況に追い込まれる。



相手どうこうより自分がやれと。

自分のタスク、役割をこなさないと

やらない自分の過失を責められる。

それが怖いんですよ。



そこでペースを緩めるのも自由

疲れてるなら、ボール回すのも自由。



外国人が主体のリーグを見ると

監督はこうしろと声を張り上げるが

選手は簡単に言う事聞くわけがない笑



お前(監督)がプレーしてんじゃない。

オレ(選手)が決断してプレーする。

黙ってろ、いま相手と駆け引きしてる。

それくらいのメンタルでいるだろう。



監督も言うこと聞かない選手のベースを

当たり前の主張だと思ってるはず。



相手がそういう意図があって

回しているとしても相手が上手い

ボール取れないから

追っかけてもムダ。



ムダ走りしたうえに

いざ、少ないチャンスが来ても

疲れて十分なパフォーマンスを

発揮できずに終わってしまう。

日本代表もこれを繰り返してきた。



それでもやっぱりベースは

組織は日本人主体だから

Jリーグだとなおさらね。



イニエスタが当初呼ばれて

意図が伝わって目指したスタイル。

そのアクセント的な役割も

あったはずだと推測する。



年齢的な部分もあるだろうけど

チームが標榜するスタイルが

日本人が機能しやすいスタイル

結果を求めるようになっていく。



異なるスタイルで結果が出てくると

イニエスタの活躍の場がなくなり

心はついに折れてしまった。

そんな感じがしなくもない。



日本人が速く矢継ぎ早に間断なく動く

その連続を時間内に絶え間なく仕掛ける。



そういう動きをしてしまうのは

自分でこうしていいと決断をしてない

決めてこなかったがためだ。



何もしていないと不安で仕方なく、

何もしていないことが負けだと

思いこむ習性を叩き込まれすぎた。



攻めなきゃ、ボール獲ったらすぐ攻める。

獲られたら攻めるために、すぐ奪う。



すぐ、すぐ、すぐを繰り返すために

テンポは一定になり、常に動き続けて

働き続ける。こなすしか道がなくなる。



ほら、もう日本人の悪いイメージが

脳裏にも浮上してくるでしょ?笑



小さい頃から組織ベースの動きを

やったうえで、習得したうえでの

自由にやれるときは自己判断で

自由にやって構わないよと、言う。



これはね、日本人の社会のあり方とも

共通してる部分がすごく多いんです。



このあり方が他人との関係性を

機械的で感情オフ気味にさせ

利便性に没頭する

誰かがやってくれる、誰かがやるまで

動かない、動けない雰囲気をつくった。


でもね、組織ベースを先に叩き込むと

自由にやれるときに、自分では

発想して生み出すのが難しくなってる。



外国人はまさにこの逆をいく。

個人の上に柔らかく組織を置く。

だから出来栄えがまったく違うものに。



日本人は組織のスポンジのベース

その上に自由を学んでいくとしても

最初に組織の動きを無意識に覚え

身につけていると、ぎこちなくなる。



宝塚の動きが染み込んで抜けない

バレエの動きが抜けない、みたいに。

かつて吸収したスポンジは固くて

他を染み込まなくなっている。



その組織的考え方って日本人は

常識のこと、正しいことだと

学んだ世代が上にいき、下を教える。



こうなるともう彼らが白になり

自由な発想のほうが黒になって

異端になってしまう。



逆を言うと、異端であるからこそ

いまの時代は効果があるのだが

そこをあえて認めて開いてあげないと

潜在的な能力は開花しない。

チマタの閉塞も打開できないんです。



かくして、イニエスタは絶望した。

日本人の壁は厚かった、そして

暑い中で走り続ける異常な熱量に

得体のしれない怖さを味わったのかも。



たとえ外国人の監督が増えても

日本人が主体なら日本人が動きやすく

チームをつくるし、戦術をとるだろう。



相手のチームがそうしてくるなら

戦う自分たちもそれに対応して

速く間断なく攻めて守ってを続けないと

活路は開けなくなってしまうから



本当はやりたくない戦術を

とらざるをえないのかもしれない。



こうやって日本人は走るのを

止めなくなった。

止めていいときを決めないと

止められないように。



あらゆるジャンル含めた

日本人の大きな課題のひとつで

もしかしたらそれがすべての

原因なのかもしれない。



イニエスタの言葉は私たちに

限りなく重くのし掛かる。



しかし私たちは残念ながら

解決に踏み出せないままなのだ。