なんか違うなぁと思うことが

2つあったのですよ、書いときやす。



初めて観た若林と山里のドラマ。

テレビつけてたら観てしまったのだが。

あそこまで、真似するのは正解か?



そして「まつもtoなかい」が

視聴者が観たいものと離れていく

瞬間瞬間をまざまざと感じたこと。



まず、ドラマのマネのほう。

口調や見た目など真似して近づけること

それが本当に正解なのだろうか。

短期的には仕方ないのかもだが。



現在、存命の人を演じるときや

比較的近い年代の人で資料映像など

ちゃんと残っている人の場合。

やっぱり寄せてくよね〜っていう。



ただ近いところを演じたから

すごい良いかと言ったら?



これは観衆側の欲求でもある。

参考書通りを望む欲求でね。

しかも寸分違わぬことを求める。

それを褒められてもどうだろう。



演者が奥底に持っている欲求

すごい似てるを超えるところ

そこまでは到達しないんです。



たとえばわかりやすいのが

大河ドラマなどで演者があえて

似せていくことをせずに

歴史上の人物のイメージを覆し



この人はこうなんだと

大衆が認めてしまう流れ。

ありますよね、実際に。

ただ、どれも若干寄せてますが笑



そういう役が史実を

フィクションであっても

超えていくような瞬間、

あると思うんです。

おそらく役者冥利でしょう。



ほぼ写真などない、あるいは

その出典や意図すら公平ではない

歴史上の人物など、大河は多い。



意外に寄せていかなくても

知らない人たちは納得するが。



それによってこういうことも

本当はあったんじゃないかな?

人間だし、考えられるよねっていう。

それも歴史ロマンではないの?



大河とかは逆に史実に基づいて

忠実に再現させようとする力も

はたらいてくる。これもあるから。



歴史ファン的な声に負けるのか。

ドラマだし。本人じゃないし。

フィクションと認めて自由にすると

まだ見ぬ視界が開けることがある。



日本はそういう視界が開くことを

無意識に嫌っている気もするので。

何事もなんかフルで発揮してない。



欲張っちゃいけないとか

変えてはいけないとか

縛りを自分たちで強力に効かせて

変える度胸なく責任から逃げる。



当時と同じ状況の出来事を限りなく

リアルに近い状態で疑似体験したい

ってことを受け手も強く求めすぎ。



視聴してもらわないと仕方ないつくり手。

折衷案のように、とりあえず見た目や

口調などを寄せてるんだろうなぁって。

参考資料が明確な現代版は、より強い。



ただ、それも背景には

変えてはならないっていう

主体的でない姿勢が見えてくる。

曲解で、極端な解釈、極解かもしれぬ。



そのへんは私たち視聴者は受ける側。

つくり手がある程度、見方を引き上げる

それくらい自由度を見せて、まいったと。



視聴者の先入観のちょっと先行って超える。

それくらいやってくれてもいい気もする。

どこかでそれを欲している部分もある。

なにか塗り変えられたい願望のような。



真似ばかりをしても、ダメですよ。

真似では輝けない、ホントの意味で。





一方、まつもとなかいのほう。

これはなぁ。テレビ側の

間違っていないと思い込んでいる

姿勢の問題でね。



こっちはまた、逆なんですよね。

寄せすぎるドラマの問題点とは

つくり手と視聴者が逆のバージョン。



番宣ってやっぱりね、現実に

引き戻しすぎる手法なんでね。

他のどこでもやっているから

いいってもんでもないので。



その放り込んでくる理屈すら

まだ許してもらえると思ってるのか。

そうじゃない番組をつくれと期待し

視聴者はそれを見たいと思ってる。



普通と違う、他と違う、だから観る。

そこを狙えるMCを用意してるのに

CMっぽくぶち込むと冷めるんですよ。



おそらくそこでしょうね、問題は。

つくる側は良かれと思って番宣絡み。

これは変えられませんと思い込んでる。



そちらの横のつながりは視聴者は

あまり好きではなくなっているよ。



ましてこの番組を実現させたならば。

同じことやっても、逆に意味がない。



見てください、聴いてください。

これじゃない普通じゃないところを

この2人の番組に期待しているのに

いいとこで冷めることすんなよと。

普通すぎる企画に逃げんなよと。



視聴者としてはもう感覚的には、

You TubeやTverなどのCMと

同じ感覚になってるんですよ。

しかもスキップできないCMね。



松本と中居がいてそこに

普段絡まない、何の宣伝もなく

ただ出たいと思って出てくる

豪華なゲストとのホンネのトーク。



そのまだ見たことのない化学反応

それを見たいんですよ、きっと。



だから、あぁ番宣か。宣伝なのか。

だから出たのか、みたいな冷め方ね。

良かれと思って双方のために宣伝。

企画する意図や姿勢も、辟易する視聴者。



こういうスレ違いが生んでるものには

いつもと違うことをあえてしていくと

カチッと急にハマることがある。



こんなもの売れないってのが

売れるのと同じ感覚でしょ?

すべては先入観や常識を外せないから。

原因は内なる自分たちにある。



どこかで一方の側が

恒例を繰り返し

凝り固まった解釈や

姿勢を続けてしまう

それによって生じる。



日本は前例踏襲が強すぎるから

余計に目立つ感じはしますね。

それ何十年、何百年続けるかゲーム。

これもある種の逃げです。



外国も当然あるでしょうけど

破るときはちゃんと破ってくる

そういうイメージある。決断力。

コロナも経済も政治も全部同じで。



破りたい人が潜在的にいたとしても

体制や大勢が慎重に進めるあまり

何も打開できない、期待ハズレになる。



これを日本はいろんな分野でずっと

繰り返しているんだろうな。



すべて破れでもないし、そのさじ加減。

基準を決めずに個別に判断していい。



それができないんです、決めてもらう

前提でしか動かしてこなかったから。

哀しいかな、停滞日本のリアルですね。



やってないことをやれ。

やってないことをやることを

誇れ。称えて、我慢して進め。

さすれば未知は開く、みたいな。



あきらめずに挑戦できる土台を

意識してつくっておかないとこの国は

このままでは簡単に土砂崩れを起こす。



くれぐれも、逆をいきましょう。

欲しがる逆を、時には欲しがるものを。

松本も好きな、逆にをね。