コロナがまたぶり返してきてる。
死者数が最高だとかあるけどね。
目の前に反応するクセがつけられ
全体を見ない傾向が強い日本人には
次々と情報を提供される現代では
気になってしかたなくなっていく。
そういう雰囲気が出来上がってしまった。
かつてはそれほど情報も届かずに
研究も進む前の世の中であったために
過去の、このような感染症であっても
それほど気にせず自分の生活スタイルに
すぐに戻っていくようになっていたはず。
海外の人間の意識はこっちに近い感覚。
たぶん、ここの感覚に戻せるタイミングが
あったはずなんです。以前も書いたけど。
ハラが据わってるようにデンと構える。
死者に対しての気持ちはもちろんある。
でも自分は自分、という意識の強さというか
全体としては動かしていかないとダメになる。
そのせめぎ合いを理解して非情に映ることも
選択して集団免疫を獲得してきたイメージ。
そういう心構えの差があるんだろう。
日本は必要以上に情報を浴びせられて
そのなかで常識が変わっていく。
本来、変えてはいけない芯の部分まで
すぐ変え、仕方ないと受け入れてしまう。
常識が変わるときのその瞬間、従順で。
すぐに影響されて考えを覆されても従う。
伝わるかなぁ笑、この雰囲気。
言葉を選ばずに言えば、ダマサれやすい。
日本の情報流通との差はわからないが
情報の受け取り方に差があるんだろう。
東アジア圏もちょっと同じ雰囲気があるが
日本とはちょっと毛色が違い大胆不敵、笑
欧米や同じアジアでも中東も違う雰囲気。
情報の処理の仕方に、軸がないというか。
情報に左右されて右往左往しがちな印象。
考え方がブレてはいけない基準があって
それを明確に意識してるか否かで違うんだろう。
同調圧力が強いと言われる日本人。
いや日本人だけでなく日本に住む外国人も
そうなるから、日本という国の問題だ。
この国に住むかぎりは、受け入れてしまう。
それだけ雰囲気が支配する国なんだろう。
ひとりひとりを見れば、外国の人間と
同じ気持ちでいたい意識も自覚もある。
これは日本に住む日本人も外国人もそう。
でもこの国で生活するには受け入れないと
生きていけないように感じさせる
得体のしれない雰囲気をつくってしまう。
この雰囲気づくりへの従順性が高く
そして異常に早く、決まったら今度は
そこから動かすことを躊躇してしまう。
怖いし恥ずかしいし、責められたくない。
医者の言うことに対しても同じであって
結局、医者が経済を回すわけでもなく
生活を支える費用をくれるわけでもない。
でもこうしてほしいと言われると
仕方ない従うしかないと思う雰囲気に。
んで、医者の役割ってなんだろうか。
医者は病気を治すことだけを考えたら
病気を治すための必要なことをする。
現代の医者はそうなるんだろうな。
むかしの医者は技術や知識がいまと
比較して未熟であったとしても
できること、できないことがあるから
割り切っていた部分があったかもしれない。
患者の人生と社会全体のことまで
逆に視野に入れて考えていたのかも。
治せたらという気持ちは今も昔も同じ。
でも患者が生きて生活を続けていくこと
人生が寿命が長い時代ではないから
命を生きながらえさせることを優先せず
残りの人生を各自が生きたいように
できることを手助けして、精神的にも
支えて励ますような存在だったのではないか。
家族を養い、育て次世代へつなぐこと。
その感覚とは相反することが多い現代医療。
発達、進歩してしまったがために
救えるから救って、生きてほしい。
生きてほしいからできることは
時に人のそれまでの生活を否定する。
そして費用がかかろうがなんだろうが
病気を治すのが私の仕事という押し切り方。
医療従事者としての矜持がカイマ見える。
技術が発達してしまったがゆえに起こる
それぞれの正義のエゴなのかもしれない。
医療からの視点、社会全体からの視点
相容れない部分に振り回される現代社会。
軸を、生きることにしてるのは同じだが
医療の先の生命維持と、各自の人生の過ごし方。
いまの医者は難しいんだろう。
こうすれば治ると知ってしまったがために。
各自の判断に委ねるしかないのだが
医者によっては発信力を利用し語気を強める。
そこに情報を獲得する日本という国の
従順かつ同調圧力ブレンドされた雰囲気。
自分では決められない、決めてほしいと
考えるようになってしまった国民のいる国。
背景にはこんな構図が隠れている気がします。
いま一度、自分が生きること
社会全体の一員として考えること
良かれと思うことが引き起こすこと
雰囲気に自分を奪われないために
必要なことを考え「治す」必要が
あるのではないか。
日本という国はその重要な決断から
逃げてきただけな気がしますね。