近頃、増えてきているのは
プレーヤーと応援者という
人間が二極化する現象。
ネットに巣食う人々の
感情の奥底にあるのは
応援するしか面白味がない
現実へのやるせない思いか。
自分でもいろいろとやりたい
その気持ちをずっと隠している。
でも隠しきれないから
なんか腹立って、文句が出る。
応援するというポジションで
ホントの気持ちを隠しつつ濁す。
常識的に振る舞おうとしながら
応援者を演じている気がする。
すぐれた人やモノを
応援するという価値は
もちろんある。
素敵やん(紳助)と思うが。
もちろんすべてではないが。
誰かを応援して満足してる
「フリ」をあえて受け入れて
演じて、言い聞かせて、信じる。
哀しいかな、何が楽しくて
自分以外を応援していたいと
思うのだろうと古い世代は思う。
自分がやらなきゃなんの意味もない。
プレーヤーでいたい人が
潜在的に多くても
場がないからできないって
人が多くいるという現実。
ここを変えられないのか。
変えたいと思う人は多いはず。
スポーツや芸能などに限らず
仕事も地域やコミュニティにも
共通する、しくみの問題。
人が多いから仕方ない
という理屈はこの際いったん
置いておかないと話は進まない。
本来、一本化してみんなが
足並み揃える必要はないのに
揃えたがるし、従いたがる
その国民性がネックになる。
未来、人が少なくなるのは確実
いまのうちから、ある意味で
機能しない人扱いされる者たちに
自分たちでも旗印を立てる意識が
当たり前だと思える流れをつくる。
そのほうが負担は分散されるし
自主性によって無駄も減るだろう。
いま人がいるからこそやるべきで。
誰もがチャレンジすべきだろうと。
どうにか、もがいて自分でもやれる
その道すじをつくっていいんだよと
次の世代に示しておかないと。
次の世代は自信もって本来もつ力や
自主性を発揮できなくなる。
人は国の宝であるはずが
宝の持ち腐れをして
長年に渡って放置してる。
足りないから現状のAありきで
そこにプラスする視点でなく。
主体になれるBを別でつくろうよと。
一度決まったものを覆すのを
極端に避けているスタンスでは
活性化もしないし、ムダに
人を余すだけに益々なってく。
気持ちが前向きになることを
自分でつくり、自分で動かすこと
作り替える視点を持てないでいる。
人の気持ちがパッと変わり
やる気が湧いてくるような
前向きになるような視点を
為政者たちは軽視し続ける。
用意して、さぁ使ってくれという。
しかし下手なおもてなしの前で
私たちは閉口してしまう。
もう遅いし、ヘタだし。
人の気持ちを上げる視点に
立ち寄ることなく足していくだけ。
先に私たちがしくみをつくるから
その中に入れ。それ以外は認めない。
それまで待ってろ、多少の犠牲は
仕方ないみたいな、姿勢がみえる。
それは管理したがるからで
管理に人を押し込めるのは
得策ではない人口の数なので。
あらゆるジャンルで
自分も取り組みたい
でもその活躍の場がない
うまくできない、まとまらない
という状況、多いと思います。
それを競争して少ない小さな枠を
つかみとるしか選択肢がなく
ほとんどの人はあぶれ、あきらめる。
それ以外の形をつくろうとしない。
競争力の果てにレベルを維持する
そのためには仕方ないのだというが。
それは勝者側の理屈でしかない。
全部が全部、そのしくみを踏襲し
利用する必要も根拠も実は、ない。
各自がつくってオリジナルを生み出すと
相乗効果で全体も活力が生まれる。
全体が生む活力は手に負えないから
コントロールできる範囲で為政者が
最小限でやるのが理想的だと考えてる。
純正の枠は一つしかなく、そこに
人もモノもカネも集まるように
流れをつくっていく勝者たちの王道。
正しいものを、ちゃんとしたものを。
そう言いながら有利に導く手法だ。
結果としてプレーヤーを望むが
夢破れて、いつしか応援者となる。
それしかできなくさせた。
でも応援者はホントは参加したい
参加したかったんだという意識が
近年、すごく見え隠れするんです。
意見を言うのは自分もそうしたい
気持ちをもつから出る言葉でもある。
そうしたいけど場がないから。
でも、場をつくろうとしないし
いざつくっても結果的に
潰されてしまうことが多い。
だから誰も挑戦しなくなる
ことが多い、という現実。
アドバンテージは勝者、既存に。
だが盤石かというとそこは
マジョリティの応援者たちの
気持ち次第のところもある。
そこの流れを変えるのは
容易ではない。
天変地異など不可抗力によって
既存の骨組みが壊れてしまうくらい
何かが瓦解しないと変わらない。
ずっと勝者がやってきたのは
骨組みの継続、維持が一番であり
そのことを悟らせないように
肉付けを変えてきただけ。
骨組み自体を変えないと
動かせないものって
あると思うんですよ。
日本人はそこの骨組みを
自分たちでリードするのが
不得意になるようなしくみにした。
意識はあっても自信がないんですよ。
自信が無いし、上手く行かないしと
マイナス要素だけで脳内を埋める。
変えていいんだよと言われても
やり方がわからないことは
自分からは動かせない。
誰かの模範を求め、模倣して続く。
既存の骨組みをアレンジして
肉付けする、1を2にすること。
そのスキルが上手になったのは
主体性を欠く国民性と無関係でない。
安心したベースが出来たあとに
裏付けのあるそこを起点に
安心安全を担保したうえで
自分たちを磨いていくから。
その土台の上でのみ力を発揮する。
それがやりやすくて学びやすく
逆に言えばリスクも少ないし
ヘタに考えなくて済むからで。
ホントのチカラ発揮してない。
ここを変える意識をもって動かす
自信がつくには誰かがトライして
道すじを示す必要がある。
道すじを真似るのではなく
同時にみんなで主体的に進む。
先頭で同時に併せ馬するんです。
停滞を自分たちから破壊せず
労せず完成品を踏襲することを
やめなければ、もう無理だろう。
他人や他の対象物を
応援するという役割を
任されていると勘違いして。
応援することに充実感を
感じて生きるということ。
これをしてしまっている人
多いのではないだろうか。
応援する人生で最後まで
支えにして、支えることで生きる
それで満足なのだろうか。
誰かを応援していれば充実する
でも、そうするしかない現実。
それが楽しい、かつ、リスクがない。
対象者1、応援者9の割合
これからもっと対象者はレアになる。
もう小数点に入っているだろう。
スポーツもそうですよね。
応援者がビジネス的に重要。
応援してもらってナンボのプロの世界
ビジネスも組織化されていくと
プレーヤーと観覧席に人間も分断されて
それが心地良いとなると応援者も自ら
続けていく流れになっていくんだろう。
みなさんが応援してくれるから。
この言葉は麻薬なんだろうな。
充実感を満たしてくれるのだろう。
応援するしかない人が多くいて
応援することで溜飲が下がる。
最後、置いていかれても
過程に満足して慰めるフリ。
いくら応援しても自分の環境が
変わることはなく受け入れている。
私たちはこれからもそれでいいのかな?
今年もたくさん言葉と思いを
感じるままに書きなぐりました。
ただ書くだけではダメだな。
自分も誰かに動かして欲しい
その気持ちが強いのかもしれない。
ワタクスも場をつくりながら
同時に誰かと併走しながら
競い合うといいのかもしれない。
今年も読んでくれた方に感謝。
言葉は何歳になっても
どんな状況でも磨いていける。
気持ちを切らさぬよう
絶やさぬように書いて生きます。
良いお年を。