M−1観ましたが、毎年
文句が出る。必ずね。
この背景の心理を考えたい。
いろんな人がいろんな意見を
言うのは、自由であっていい。
互いに遠慮するな。
たとえ他人を傷つける言動であっても
むやみやたらにプレッシャーをかけると
逆に全体が良くならない気がする。
良かれと思ってやってきたことを
重ねすぎておかしくなってしまった
日本の社会の歪みからもわかること。
振り返ってイメージしてみると
こうしたほうがいいと納得して
やってきたことって窮屈にしてる。
良かったと思えるものが少ない。
肝心なのはその線引きが
私たちがうまくできないこと。
うまくやろうとしなくても
いいのかもしれない、ホントはね。
この件はここまでやっていいが
あの件はここまでやるとキツくなる。
その予測は十分成り立つのに
一つの基準に合わせたがる
無難な選択傾向が強すぎてしまう。
こっちがこの基準にしてる
だからあっちはこっちに
合わせておかないとやっぱり
整合性が取れない、みたいになる。
でも整合性って基準を
既存のルールに重きを置いて
判断してしまうから。
人間に基準を置いてないことが
増えすぎたのではないか。
人間に基準をおいて
考え直してみなくていいのか?
本当は人間を基準にして
相対的に判断すべきところを
作業しやすいほうを優先して
揃えたくなってしまう。
だから無意識に選択すると
人間がワリを食う流れになる。
なんとなくそこに気づきながら
長いものに巻かれる心理が勝つ。
ここらで逆の判断をしたほうが
バランス的には向上する予感が。
それをできるか否かでもある。
年々出口を塞がれている我々日本人。
また自らを閉じ込めようと試みる。
毎年毎年、同じことを続けていく。
光の射さない間口の狭い部屋で
肘をたたんで肩をすぼめて座る。
マスクをして黙り口臭を気にして
フリスクをひたすら転がす。
これ以上、大衆のストレスの
ハケグチを奪うのは俯瞰でみると
得策じゃないのは確実。
でも一つの基準に無理に
合わせにいってしまって
いつの間にか不自由になる。
これをやめたらいいのに。
気づいているくせに。
本当はこうすべきだ、というのが
人間にとってあまりにタイトで
程よいバランスを壊してしまう。
決める人はいつも根拠が欲しい。
だけど根拠も実は相対的でしょ?
よく考えてみたらね。
強引に全てを当てはめにいく
そういうものではないのに
無意識に人間がルールの側に
ハマりにいくんですよ。
電車で席空いていないに等しい
そこに強引に詰めてもらって座る。
詰める。良かれと思ってね。
そこがポイント。
その良かれは社会的良かれ。
漠然とした無難で、相対的でなくて。
すべてに適応させるのは
ホントはおかしなことだと
気づいているのにやらない
偽善的社会性の行為の結果。
他の人が少し窮屈になり
隣が気にならなかったのが
体温が気になり、ちょっと不快。
そのうちなんか臭いと感じる。
貧乏ゆすりが腹立つ。足閉じろ。
鼻息がうるさい、香水臭い。
どんどん負の連鎖が起こる。
詰めて座らなければ
感じなくてよかったことを
感じさせ不快にさせてしまう。
そういう流れを日本人は
考えるのがめんどくさくて
安易に合わせてしまっている
そんな気がしますね。
ネットの誹謗中傷の構図では
ある意味で、お互いにふざけ合う。
ふざけて遊んでかまってほしくて。
実は、リアルでいろんな周囲とも
距離ができて、ふざけることが
許されなくなってきていて。
これも前述した余波だと思う。
その見えないストレスを
ネット上でテンション高く発散
そんな人が、潜在的に増えている。
うるせーって言い合いながらも
お互い別に嫌っていない同士の
仲良しな関係のちょっと延長
みたいな、感覚やニュアンスで
書いていたり発言したりする人が
多いんだとワタクスは確信してる。
あるいはその関係を欲している。
気軽にホンネでふれ合いたい
そういう気持ちのあらわれですよ。
これを恥ずかしくて言えない。
ちょっとふざけあってるけど
どちらかが真剣に取りすぎて
ムードが一変していくような。
そこをそう取らなくてもいいのに
そう取っちゃうんだ、やっぱり。
すれ違い、やり合いのはじまり。
言葉の使い方や、タイミングが
適切でないことを責めたりするが
それほど人間は完璧になれない。
ホントに悪いこともある。
でもそうでもないことまで
すべて封じてしまうのは
日本人が相対的に考えずに
ルールに合わせてしまうから。
うまく伝わる、うまく受け流す
互いの掛け合いが向上していく
その感覚を信じていないし
もう学ぼうともしなくなった。
肝心のM−1の中身ですが
全身がブワッとくるコンビは
今回もいませんでしたけどね。
それが少しだけあったのが
ウエストランドだった気がします。
これを審査員でもないやつが
偉そうに言うな、と言う時点で
私たち全体が負の方向にいくと
思ったらいいんですよ。
偉そうに言うなというのも
ある種のツッコミである可能性も
高いし、実際に怒っていない
ツッコミの手触り感で言っている
可能性もあるのだから。
感覚的にはダーハマが
一時期、好んで使っていた
「死ねばいいのに」という
ボケ兼ツッコミのあのフレーズ。
これに対して受け手がツッコむ。
笑いが起こるという
「常識的に」奇妙なお笑いのアレ。
関係でこそ成り立つものがあるが。
アレをしている感覚でネット上で
書いている人も多いのかもしれない。
これも「シネバイイノニ」に近くて
字面が「死ねばいいのに」ではない。
これを曲解でないが解釈違いされる。
仕方ないことだが、それをやっちゃうと
あらゆるものが死んでしまいますよと。
すべてにおいて取り締まることが
できないように、すべてを正しく
することもできないのだから
そこに神経を使い果たすより
もっと気楽に構えて受け流す術を
自然に身につける環境を
整えていけたらいいのだが。
根本的にマジメすぎる国民性。
本気に受けて怒るけど
自分たちで苦しくしてる。
トータルで考えるとなぜか
自分たちで自分たちを。
難しいですね、日本人は
マジメで正しいことが好き。
正しいことをしてることで
自分は間違っていない、だから
強く出てくる攻撃性が増す。
でも結果的に自分たちを
逆に苦しめているという視点を
なかなか認めたがらない。
こういうジレンマの中に
私たちはいま居るんですよね。
全部ゼロにしたいね笑
そしたらもっとわかり合える。
少なくとも正しいことだけで
人間全体はうまく進むとは
まったく思わないから。