日本でも話題になってますが

審判の判定と選手や監督の関係。



スポーツにおける

「ゲーム」の流れが

行ったり来たりする醍醐味。



エンターテイメントの定義は

人それぞれだろうけれど。



スポーツは試合を

ゲームと称する競技も

少なくはない。



日本語に訳すと競技場と

してしまうとエンタメ要素が

消えたり、隠されてしまう。



野球場=ボールパーク

でもイメージは一緒じゃない。



そのへんのニュアンスの差に

人々が楽しむ、楽しめない

正確、不正確や正解、不正解

を貫く限界の分かれ道がある。



人間がやるからこそ面白い

言わば「不具合」を愛する姿勢。

大事なポイントだ。



ゲームと称してきたのは

有利になったり(したり)

不利になったり(させたり)

行ったり来たりする展開。



これらも含めて認め合い

全体の面白さ、醍醐味だと

肌で感じたからだろう。



先人たちはその面白さを

ゲームと表現したんだと

ワタクスは感じています。



この認識は繋いでいったほうが

のちのちベターな判断だったと

言える日が来ると予感してる。



いまはなんでもかんでも

実現したら正確にわかるとか

正しさに火をつける。



だが人間が楽しめなくなる日が

いつか来るのではないかと

危惧してる。



人間の特徴や個性を消すように

正確さを前面に打ち出してくる。



窮屈にならないだろうか?

喜びを全体から奪ってないか?



人間の不具合を愛して

それはそれで面白いじゃないか。

ワタクスはそう考える。



全体に遊びの要素を残して

その醍醐味をゲームと称してきた。



そのへんコントロールするのが

現代を生きる私たちの

大事なタスクなのかもしれない。



正確であれば、正しければ

みんながシアワセになる?

そうとも限らないだろう。



正確さを獲得した者が

常に正しいのだと

権利を独占していくような

流れを人間はつくるだろう。



いつだって人間は支配したがる。

正解さに情報戦も絡めながら

支配欲を巧妙に隠す隠れ蓑では?



正確や正義は濫用してしまうと

一部に利益や権力が独占する

というか、集まっていく気がする。



みんなが自分もその権利に

あやかりたいと動いていくから

集まっていくんでしょう。



それをコントロールするために

カギになるのが人間の不具合。



その不具合の面白さを楽しむ。

行ったり来たりを、有利不利を

互いにアドバンテージを融通し

全体をゲームと称して楽しむ。



スポーツに正確さはもちろん

必要であるし、人間の能力で

正確さを維持していくべき。



しかし人間の能力の不具合を

認めないようなテクノロジーを

前面に押し出していく流れは



いつかすべてを面白くなく

させてしまうような気がして。



そういうこともあるさと

認めつつ、有利な状況を

今度はこっちにくるように

流れをつくるゲームの醍醐味。



有利だった方が今度は不利になる。

お互いの有利不利の感情を知る

その経験で分け合える感情も

互いに理解し合えるような。



争いの中で争いの有利不利を

分け合うことで

相手の気持ちを

理解するようなことも。



ゲームと称して楽しむことには

隠されているのではないだろうか。