先日のプロ野球のロッテ
佐々木の完全試合未遂での
降板劇、賛否ありますけどね。
そのもう少し前にあった
メジャーリーグ大谷所属の
エンゼルス監督のとった
満塁で申告敬遠での1点献上
これもそうでした。
私たちは少しずつですが
別の視点からみて相手の判断を
容認することができるように
なってきているのだろう。
別の視点を得られることでの
変化や容認が何らかのヒントに
なっていくのかもしれないと
気づき始めている。
目先の勝ちや一点にこだわれば
感情的に不満に感じることも
別の視点を得られたならば
納得もできたりする。
社会の多くの人も必ずしも
完全ではない。
その時点の自分の解釈で
感情的に反発をおぼえたり
嫌がったりしてしまう。
完全であろうとすること
応えようとしすぎることが
時に、のちのすべての人の利益を
逸してしまうようなこともある。
人間は完全であろうとする。
したくなる欲求を止められない。
ただ、完全でありたい欲に
負けてしまうと人間は悪い結果が
待ち受けていることが多い。
ワタクスもそのことをうまく
理論立てて説明できないが。
ただ欲とのつきあい方を
ほどよく制限する時期に来てる。
そのほうが人間はうまくいくと
私たちも薄々、感づいている。
おそらく人間は欲の歴史だ。
欲をコントロールできずに
盛者必衰を繰り返してきた。
気がつけば欲におぼれ
欲にたかられて足を引っ張られ
奈落の底へ突き落とされる。
欲をコントロールするには
第三者の視点や客観的視点が
重要になるだろう。
人間も立場が上がっていくと
欲と周囲の期待に応えようとする。
大きな欲の渦の中にいるとは
まるで気づかずに。
しかし大きな視点で考えると
その欲に負けたことがのちのち
運命の分かれ道だったと気づく。
この人間の常習的アヤマチを
仕方のないものと肯定する
向きもあるにはあるだろう。
しかしその判断が結果的に
のちのちのアヤマチだったと
重なる分かれ道になるのだと
想像できていたら?
私たちもバカではない。
いつまでも人間はそんなもんだと
自虐的に成り下がるのも
おもしろくない話だから。
なにか変わるとしたら
こういう気づきを人間が
自分で得て育てていく。
それしかないのかもしれない。
まぁでもどんなに偉くても
そうでなくても人間は
未熟さを一生抱えているもの。
死ぬまで改善の余地はあって
考え直すことをやめたらいけない
そういうもんなのかなと思う。