今の時代は顔を出して

このような場でアピール

それが信用、みたいな。



しかし、ワタクスは

違う角度のほうが面白いと

考えていますね。



あまのじゃくで

片付けられるのも心外ですけど

狙い方がいっしょだと

案外、全体もボヤけてしまう。



シンプルに伝わるための

感情のある文章に意識が向く。

そういう仕掛け方でアリだと。



だから逆に余計な情報を

あえて入れないほうが

伝えたいことが際立つと

そこを狙いたいなと思って。



誰が言った、誰が伝えたは

人が受け取る時は重要

かもしれないけど。



ヘンな話、みんなと同じだと

逆に目立たない感じになる。

乱立してる今の時代なら尚更に。



目に留まるには逆に違和感が

あったほうが効果的だ。



読む人が「客」だとすれば

今の時代は客に合わせるのが

ベターだとする流れでしょ?



なにもかもが客の要望に

沿うようなウケを狙わないと

成り立たない、という流れ。



ネットで叩く叩かないは

要は、客自身のその時点の見解に

相容れないとき爆発する。



もちろん逆手に取って

利用するケースも目立ちますし

ホントに間違っていることもあるが。



なんだ?その態度はとか

なんだ?その言い草はとか

間違っているかどうかも

客のその時点での認識が基準。



結果的に怖がるあまりに

基準が客目線で、送り手も

客を満たそうとしてますね。



客がすべてで上回る状況は

成長や打開につながるか?

違うんじゃないかと思う。



日本が、まがりなりにも

成長曲線を描いていたときは

客に合わせるというよりは



送り手側がオレがやることに

ついてこいよ?的なイメージ。

主導権が、今とは逆でしたね。



ネットの意見に寄り添いがちな

今の流れでは否定されるでしょう。



しかし私たち自身もどこかで

自分たちの思う通りに染めて

進んでいくと窮屈になり結果的に

あちらもこちらも立たないような

状況になるんだろうと

感じているはずですよ。



結果的に認知された物事の

範囲内でしか立ち回れなくなる。



これじゃ物事は伸びないし

突き抜けることはないんです。



認知されるまではどうしても

世間とタイムラグが生まれ

そのうちに活かせるものも

活かせないまま終わる。



なんかね、そこが気になる。

伸ばそうとする意識がなくて

その場ジャッジが最優先。



ジャッジに合わないものは

必要ないと切り捨てる。



のちに切り捨てて形骸化したものを

見つけては、コレ実は良かったな

なんて捉え方をするでしょう?



たとえ間違っていたとしても

ほとんど謝ることはないし

省みて違う角度で容認してみよう

ともしないで同じジャッジを下す。



違うよね?最初に

切り捨てない余白を自分に

残して受け入れていたら

もっと早い段階で私たちは

気づけていたはずだよね?



そんなことをしているから

あらゆることで打開できない。

その当然の帰結なのかなと思う。