ワタクスのような中年になると

若い頃の時分を思い出しては

あの頃、○○しとけばとか

○○しなければとか。



考えたくなくても考える。

ただ、順調にいっていたとて。



いまのご時世の犠牲者に

なっていたかもしれない。



そう思うとそれぞれに

正解はなくてね。



失敗した人や

うまくいかない人を

すくいあげる道筋。



これがうまく

機能していないことを

どうにかせねばならない

そっちに行き着く。



滞留し続ける人の多さは

毎年終わることなく続く。



顕在化しないだけで

たくさんいるだろう。



何か、頑張れるキッカケが

欲しい人が多くいる。



それぞれの時代で

若い人が社会に出て

自分の居場所を探す。



居場所の見つけ方も

実はあまり変わっていない。

なんだかんだでみんな

勝ち残る方にシフトしていく。



勝ち残れない人が毎年のように

現れては、溜まっていく。

選ばれた人は選民意識で

満たされていく。



自由なんだけど

制限のある自由。

座席数に制限がある自由。



やりたいことがあっても

勝ち残らなければ、という

ベクトルの海に沈められてしまう。



ワタクスも含め、彼らは

滞留し続けるだけの人で

多くの人が浮上のキッカケすら

誰にも頼ることなく押し黙る。



結局、ルールがあって

ルールを守ってやっていくと

ルールの中で割りを食う人が

出てくる。止めどなく溢れる。



しかしルールで割りを食う人が

うまくいっている人と対等に

争う形には、ならない。

というか、させないでしょ?



言わば、負けの人に対しては

勝っている人たちによって

優位性を保つ意識がはたらく。



それぞれに言い分があり

それぞれの言うことを聴いていると

うまく回らなくなる。



そう思っているだろうし

ライバルが増えることは

得策ではないという意識で

同じ土俵に上がるには

不利を承知でのしあがるしかなくなる。



このパターンで停滞して

わずかな果実をむさぼり合う。

負けの人には、そのおこぼれ。

到底、満足のできるものではない。



対等に、同じ土俵にあげると

脅かされてしまうから

消極的になりウヤムヤにする。



そうやって勝っている人は

なんとか自分たちの優位性を

保ってきたのだから。



この牙城を崩すと社会は

混乱はするが、活性化する。

結局、その勇気と優位の対決。



負けている人は同じ土俵にさえ

立てれば、絶望しきった意識も

変わってくるだろう。



おそらく、やる気があっても

機会が十分でない人が多く

機会を誰かにつくってもらうのを

待っている人が多い。



だとすれば、機会を同じ土俵に

つくるべきで、やろうと思えば

やれるハズなんです。



でも勝っている人の優位性が

負荷になって自由な競争までには

ならない現実が生まれるだけ。



今年もまた旅立ちの春を

多くの若い人が迎えた。



だが、彼らのすべてが

笑顔でいられるわけでもない。



未来は広がり輝いているように

毎年、罪なく送り出すのだが。



華やかに見えているが

現実は止めどない社会の

やむことのない闇が待っている。



多くの人が笑顔を失うとしても

笑顔を取り戻す機会を

道筋をあえてつくらないと

日本の停滞は止まらないだろう。