ウクライナとロシアの問題で
SMAPのTriangleという曲が
注目されているという。
ワタクスも耳に覚えのある曲
だからこそ気になったのは
私たちがいま、安易に放つ
「ちなんで感」だ。
テーマによって安易に
やってはいけない
「ちなんで感」について。
○○にちなんで、Triangle
という曲を選択した人がいて
その曲に反応した人が拡散する。
なんらかの現象となって
メディアで取り上げられて
さらに広く伝わった
という流れ。
よくも悪くも近年
定番化している現象。
この淀みない流れは
最初の、ちなんで感の
センスや人選で勝負が決まる。
放たれたあとの一部の大衆
メディアの拡散、そして
大衆全体への拡散
という流れは、止まらない。
だからこそ、最初の一歩を
安易に関連性を見つけて
動かすチョイスをしないこと。
ちょ待てよって考えることが
重要なんですよ、きっとね。
おそらくかつてのメディアは
この流れの影響力、事の重大さを
わかっているからこそ
思慮深く、慎重にやっていた
部分や意識もあっただろう。
そのプロの矜持があったハズで。
そういう歯止め意識も
時代とともに意図が伝わらず
軽薄になっていった。
年寄りと若者の埋まらない
伝わりきらない
大事な意識のギャップ
みたいな。
大衆の発信力の高まりや
バズる効果をメディア自身が
利用、悪用して
流れを加速させるパターン。
あえて対比させると
アマチュア発信を
プロが再利用して手柄を
奪い取るような事を
プロが、日常化した。
判断に慎重であるべき問題で
置くべきクッションを
取り払ってしまった。
曲だけに、安易に手元から
「リリースしてしまった」
んでしょう(あえてのボケ)
ほんの少しのことが
反響や騒ぎが大きくなり
想定以上の波になること。
バズる感覚と同一線上に
置いてしまう意識の問題。
アマとプロが日常的に
混在しているとしても
必要なプロの注意欠陥の問題で。
どこかでライトな感じで選んで
日常の延長線上で決めていないか。
反戦のメッセージを伝える先は
世界中の人々であり
その先にいる当事者たちへの
メッセージだから。
だとすれば世界中が知る曲で
戦争という行為にNOと言おう。
視聴者にその意図を伝える
ことも重要なことでは?
いわゆる標準語で話すべき時に
方言で話しているのと同じ。
自分の領域に安易に持ってきて
安易にリリースする問題と
戦争は違うよね?っていう。
このウクライナとロシア問題で
最初の頃の報道の仕方にも
気になった傾向があった。
報じられたニュースでは
まず「私たちの生活に」
どんな影響があるんだろうか?
という目線で報道してしまう
メディアの姿勢がおかしいなと。
この姿勢で視聴者に合わせて
コビヘツラウ感じがキライだ。
戦争の問題を安易に
私たちの生活の
日常の延長線上に置くなよ?
ということ。
これは何かの歌詞にあった
海外で事故があってその中に
日本人はいませんでしたと
報じた姿勢の問題点と
根っこは同じなんですよ。
知りたがる相手に
安易に合わせてしまうと
大事なことが伝わらない。
たとえ私たちが知らないとしても
私たちの目線ではなく
戦争という現実のシビアな目線を
あえてメディアがまずは教える
くらいでいいときもある。
私たちも引き締まるし、捉え方も
雰囲気も変わってくると思う。
どこか対岸の火事を見るように
同じフィルターのかけ方をしない
させないような最後の砦みたいな
意識をメディアは持っていてほしい。
結構、大事なことだと
思いますけどね。