オミクロン株が徐々に

「やっぱり」入ってくる。



人間って慣れがあると

油断するイキモノで。



流れ作業的にしてしまう

ことが多々ある。



ルールを守って

やっていれば大丈夫

という根拠は、もろい。



人間、考えるのがめんどくさくなり

いつもの作業どおりにしてしまう。

そういうことは、ままある。



感染を広げた原因をたどれば

あの時、通常どおりの対応を

してしまったからだった

と気づいたり。



ルールをそのまま守る姿勢が

新しい変化に対応する際にも

万能に作用するのか?

というと、そうでもない。



ちょっと堅すぎる表現か。

私たちはどこかで既存のルールを

守っていれば大丈夫と

思い込みたい傾向が出る。



スマホやパソコンなどの

ウイルスと同じように

認識してしまう傾向が。



ウイルス対策ソフトを

インストールしているから大丈夫だ

っていう捉え方をしてしまう。



よもや、対策してる盲点を

突いて越えてくるとは

微塵にも考えていない。



よく考えたら、

考えられなくもない。



そういうことを現状対策と

比べようともしない。



比べてそこまで考えても

仕方ないよ、みたいに。



取り決めた対策をしているから

そこで大丈夫なら

それ以降も大丈夫だと。



本人は「もしかしたら感」が拭えない。

でも責任ある機関が大丈夫というなら

大丈夫なのだと、納得せざるをえない。



危機感は人によってさまざまだ。

その対策で大丈夫というなら

丸のみして普段通りの行動に移る者。



大丈夫と言われたけど一応は、

もしかしたらと思って自粛する者。



実はそこで配慮ある指摘を

するかしないか、そして

その注意を守るか守らないか。



もしくは指摘や注意がなくても

想像力をはたらかせて

もしかしたらの可能性まで

自分で考えるか否か。



やみくもに信じるのではなく

もしかしたらの可能性を

判断の準備材料として

自分で考えているかどうかで

自分自身の対応も変わる。



この心理的な傾向は

あらゆる事象に潜んでいる。



私たちの日常においても

新しいことや未知のこと。

想像や現状の上を越えてくることは

あり得るという現実。



みんなが気づいた時には

もう遅いみたいなね。



人間のあらゆる感覚を

数字やデータに任せきりにすると

「もしかしたら感」というのは

もしかしたら、退化していく。



そこまで神経質にならなくてもと

思うスキマを突いてくるのだろう。



しかし考えすぎの一点張りと

微塵の可能性まですべてやるのは

キリがないと、考えなくなる。



実はすごく大事な感覚だと

個人的には思うのだが。



口に出さないまでも自分では

もしこうなったら?という

可能性については

想像だけでもしてみること

頭の中では考えてみることも

悪くないとは思うのだが。



これも考えすぎなのかな?(笑)

少しわかる、という人は

ワタクシ同様、神経質すぎる

のかもしれませんね(笑)