よーく考えてみると

エンターテインメントって分野は

芸能界という業界に独占されて、

特化されて発展してきたのでは?



世の中の多くの人が芸能人に

一度はあこがれ、なりたいと願う。

かつてはそういう時代だった。



夢のまた夢みたいな世界のように

ほんの一握りの人がプロとして

莫大なお金を稼ぐスターを生む。



トップオブトップ。

その業界が、認めた人を選び育て

あるいは自分で手繰り寄せる。

認められた人たちが残っていく。



ゲートは狭く、非情である。

映画やテレビとともにエンタメ業界は

芸能人とその界隈を中心に回っていく。



特権階級のような意識も

まだあるだろうと思う。

だから反感も強く集まりやすい。

少なくとも外からはそう見える。



その中心のテレビのヤリクチが

面白くないと感じた人が増えた。



それもこれも、意見の可視化が発端。

昔から面白くないと思っている人は

いたはずだから。



ブログ、SNSなど自己発信のツールが

どんどん意見を可視化していった。



リアルタイムで可視化が更新されていく。

次々とユーザーの希望に沿っていく。



いつしかこれまでのように

エンタメ業界自体に対しても

ふんぞり返った関所を通過せず

「経て」いなくても表現可能になった。



エンタメ業界からみたら

「シロウト」でも始められた。

そこから育つ人も現れた。



大衆の支持をダイレクトに伝え

相手からも受けられるようになった。

このあたりから風向きが変わる。



程よいインフルエンサーを

利用する企業の思惑も強まる。

ウマイシルをよこせとばかりに。



意見の可視化によっても

意見に賛同していく波ができる。



このバチンと音がするくらい

火柱が上がって共感した瞬間、

すごく速い波が立ち上がっていく。



得体の知れないものや

要らないものまで

飲み込むチカラを持つまでに

大きく速く成長していく。



こうして手に負えないほどの波に

翻弄される作り手と、

そのヤリクチに辟易する

わかり合おうとしなくなった受け手。

いま現在の混沌が生まれた。



芸能人っていうのは

エンタメ業界のスター選手。

選手によっては存在そのもので

大きな社会現象を引き起こす。



活躍する人などを選ぶとき

すべてその業界が関所となる。



ユーザーに提供する前に

審査してスターという商品を選ぶ。

お店がセレクトしたものだけ

商品として価値を認めていた。



むかしはそれにどこか納得しながら

提供されるサービスに従うまま。

そのやり方で通用していたんです。



お店がセレクトしたものだけが

商品であり、それを私たちが選ぶ

そのルート経由だけが商品だと疑わずに。



だが意見が可視化されることで

エンドユーザーである大衆が

各自ホントはこれはキライだ

これはこうしてほしい、すべきだ。

欲しいものをリクエストし始めた。



大衆に応えすぎるのも良くない。

でもそのさじ加減が互いにわからない。



お互いがバランスを失ったまま

正義だけが重く幅寄せしてくる。



古き良き時代は流れに流れ

簡単にモノが売れない時代。

買ってもらえなきゃ

商売にならない。

生きていけなくなる。



ユーザーが欲しいものを

買ってもらうために、つくり

リクエストにどんどん応える。



そうするしかなかった。

生き残れなかった。

世間一般の商売事情が当然

エンタメ業界にも持ち込まれる。



新たな発見もある反面

いいことばかりでもない。

キツイ言い方をすると

どんどんつけあがる。



お店ではリクエストに

なんでも応えてくれたよ。



アンタらも応えないと

食っていけないんじゃないの?



君らを後押しするスポンサーも

大衆に嫌われたくない企業は

どうすると思う?



うまくやって大金稼ぐ人に

ちょっとなんか腹立つみたいな。

気に食わない、と小突いてみせる。



ある意味、特殊であって

許容できた範囲内の

ファンタジーであるハズの業界。



ワタクシはある意味で

ちょっとしたオアシスのように

ファンタジーな場所は

あえて残しておいて損はない

と思うタイプ。



リアリティーをあまりに

持ち込むとバランスが崩れる。



人間は最初はゼロにして

無くしたくするんだけど

無くしたあとに後悔する生き物。



正義と法律、弱者救済をタテにして。

それで面白くなくなったと言われても。



面白くなくても生きていける人の

意見ばかりを聞かなくてもいい。



エンタメ業界に対して

手かせ足かせで変わらず走れと。



そして、やるかやらないか

決断を自分でしろと迫る。

責任は自分たちで取れ。

コッチからは助けることはないと。



どちらに対しても助ける手は平等に

差し伸べられるべきではないのか?



送り手は自分たちのルールの中で

通用していたことが世間的には

通用しなくなっていく。



舵取りを完全に自分たちでは

握れなくなってしまった。



大衆の心理では、許せていたことが

許せない感情で支配されてしまった。

倒す快感に酔いしれて溜飲を下げて。



そんなんじゃないのに

ちょっと極端すぎるよ。

そのさじ加減は間違ってないの?



たぶんいろんなことが

うまくいきすぎると

私たちは最後に自分たちで

壊すように促される。

そう仕組まれているのかもなぁ。



誰かを責めたり、攻めたりすることで

解消しているのもわかるんです。

かといって、応えすぎるのもダメ。



いいものをつくるのには

特にエンタメ業界においては

ある程度、意図的にでも制限を

緩めないといけない予感がある。



ただ人間は自分が受ける恩恵と

同列で、あらゆる物事を見て

要求してしまう癖があるから。



だから、難しい。

一般的なモノを売買する構図や

大衆に基準を合わせすぎると

何もかも逆に殺してしまう。



その犠牲になる人たちは

正義によって守られる人と

何が違うのだろうか。



倒して、ざまあみろと思いたい。

ただそれだけの感情が

強くなりすぎてるのではないか?