コイーケ都知事が言う

教育上大切なパラ観戦。



直接、観戦しにいくことで

リスクがあるのは承知で。



それでも対策を取ってやれば

大丈夫という判断であり

この体験が子どもたちにとっても

有益であるから、という理屈。



子どもがどういう環境で観るか。

事前に競技や選手についても

勉強してきているんでしょう。



でも観て、感じたことをまとめる

勉強のほうに意識がいって

競技そのものが甘噛み観戦になる。



生で目の前で観戦させたいのは

オトナの側の自分たちは子どもたちに

やってあげたいんだという気持ち。



子どもが集中できる環境とは

必ずしも言えない環境でしょ?

このご時世、このタイミング。



小中高、何年生であろうが

大事なのは生で見せることより

どういう経緯でその選手になって

その競技を通じて何を得られたか。



そこをうまく説明して

理解を得ること。



そして、一番大事なのは

本人たちが集中できる環境で

それを見聞きすること。



学校の行事の感覚は

いっつもピントがズレてる。



いいことをやってあげよう。

あとは本人次第という、ぶん投げ方。



場を与える満足が上回り、

結果的な効果を無視してしまう。



思い出って、作業工程として

示しておけば、思い出になるの?

違うでしょ?それだけじゃない。



子どものころの印象に残った記憶。

オトナの私たちはいま思い返すと

わかるはずです。



オトナが一生懸命頑張って

子どもにやってくれたことって

意外と覚えていないことが多い。



残念ながらそれが現実ですね。

皆さんにも覚えがあるはずです。



むしろ親やオトナの気持ちをヨソに

自分の尺度で、自分から気づいて印象に

残ったことを覚えているような。



ワタクシはその感覚のほうが強い。

オトナの意図と、子どもの受けは

一致しないことがほとんどだと思う。



発想変えてみたらいいのでは?

学校でライブ中継を観ながら

その種目の出場経験のある人の話や

興味持たせるのが上手な関係者が

観戦しながらサポートするという。



子どもが興味を持って自然に

集中して話を聞いたり、見たり。



その印象的な光景と言葉で

心のどこかに自分の体験として

一生の思い出にランクイン。



これができたら一番いい。

カタチや生観戦などは

それほど重要ではないんです。



どれだけオトナが一生懸命やっても

子どもが乗り気になる環境や状況を

つくりだせないと意味がないから。



オトナは、やってみせた。

役目を果たした。

あとは子どもたちに

各自、受け止め方は

それぞれでみたいな。



あまりに投げっぱなしで

工夫がない日本の教育志向。



一歩先を考える教育ができない。

日本の「主体的に考える」という

弱点がいつまでも解決しない理由。



体験したことを何度も思い返すことで

その思い出は強く刻み込まれる。

単に見せればいいってものではない。



大事なのは見せたことじゃなくて

トータルで聞いたこと、見たこと。

話したことなど、理解できた体験だ。



本心で感覚的にリアルに体験する内容。

やっぱり直接観るのは違うから。

という理屈がすべてを上回るオトナ。



違うんだよ、オトナたちよ。

自分が「やってやった感」

だけだよそれは。



子どもが印象に残るのは

オトナの尺度とはいつも違う。

 

それはコレをみて、アレをして。

指図されながら理解して学ぶのとは

違った感覚の体験や理解なんです。



学ばせ方に落ち度があるとは

まったく考えもしない日本人の体質。



もっと大きな尺度で学ばせ方にも

前例に支配されない発想の転換が

必要なのではないかと感じますよ。