ワタクシはよく意図的にカタカナを

使ったりしますけど。

どうでしょう、このタイトル。

競走馬名(9文字以内)にピッタリ。

走っても走らなくても言い訳可能?



この気持ちが優先されやすい現代。

やっぱSNSの存在って大きいんですね。



自分の意見を言いやすくなり、

他人の目に触れやすくなった。



そうなんですよ、届きすぎるというか。

もう少し距離をとる、あえて時間をかける。

そういう戦略も大事かなと感じてます。



ワタクシはそういう意図もあって

SNSと距離を置くとどんな違いが出るか。

それを楽しんでいますけどね。

チカラ加減が客観的に見えてきます。



結局、絡んでくる糸が多すぎるんです。

縦の糸も、横の糸も、あなたもわたしも。



有名人たちもいろんな人の意見に

答えすぎて、ややこしくなってる。

あまりにも意見を聴きすぎるのも

もう良くないと思いますね。



創成期あたりだったら双方向で

互いに理解し合える、通じ合える

共有している感覚が新鮮であり

あの頃が一番良かったのだろう。



ただ、慣れというのは怖くて。

エスカレートしていくものでしょ?



昔だったらちょっと飲み込んでいた言葉。

言いやすくしてしまう環境に慣れ過ぎた。

それを自分が先に言いたくてたまらずに。



我先にと、世の中の顔のみえない人や

誰かもわからない人たちと競うように。

同調される感覚がうれしいのだと思う。



「いいね」「スキ」などはそういう事。

本来の双方向で通じ合えた喜びを

原点をもはや横に置いてしまっている。



僕が言った、私が言った。

意見を聴いて納得してくれた。

自分が相手を社会を動かした。

その欲に駆り立てられている。

そんな感じもする。



わかるなぁ、たぶん自分の周囲や

自分だけでは何か動かせる環境がない。



だからネットを通じて社会の問題点を

うまく共有して、うまく集めて

糸が絡まりすぎずに通じあえば。



もっと活きる人たちが増える。

生きるモチベーションが上がる。



そういう「自分おこし」をしたい人が

潜在的に多いんだと思います。



その気持ちだけでうまく回らない

リアルな日常に辟易している証拠。



この根本はこれまで可視化されずに

みんなが心の内にしまっておいた

感情そのものが、吐露されている。



つまり以前と変わらぬ普遍的な

人間の感情を可視化してしまった。

だから、こじれるんですよね。



一度決壊した感情は流し切るまでは

歯止めが効かなくなってしまう。

現代はもう、ダダもれ状態なんです。



昔は上がってくる意見を知るのは

意見をした人と、された人の側。



可視化したことで知らなくてもいい

外野の第三者まで加わることになった。



この影響がいい影響もあれば

悪い影響もあるのは当然。



人間の感情は一番扱いづらい。

モノをこっちからあっちへ

動かすようにはいかないのだから。



芸能人をはじめとする多くの著名人。

それに対して私たちのほとんどは門外漢。

その道のプロでもないですから。



ただ、プロがいろんな意見を聴くという

側面も同じように大事は大事なんです。



いまのままだとなんでもかんでも

全部に目を通して、全部に真摯に

全部に応えよう、答えようとして

疲弊してしまっているのではないか。



やれていたことがやれなくなり

どんどん窮屈に、選択肢を狭める。

そういう効果のほうが大きいのでは?



おそらく肉体的なこと以上に

精神的な疲弊、ストレスを

大衆が与えすぎてしまっている。



ずっと意見を聴いてくれていると

思っている以上にエスカレートする。

その感情の衝突が手に負えなくなって。



いったん落ち着かせるため

沈静化させるためにも

意見を発信しないという選択や

意見を無視するという選択も

必要な時期にきているんではないか。



ジブンタチノツゴウ。

少し距離を置く時期。

いったん絡まった意図ある糸を

ほぐしてみないと。



ますます窮屈な世の中に

なっていく悪い流れが

止まらないのだろうと感じますね。