そうですね、サッカーネタから
派生して、また考えたことを。
日本の協会や監督と、選手たち。
レベルアップの状況においては
「タイムラグ」が生じてしまう。
同時進行だが同じ速度や規模で
成長しないのが、常だと思うから。
いまは選手が先に行って
監督がちょっと遅れ始めて
差がつき始めていってる段階。
選手がレベルアップ。
素晴らしいこと。
でも選手を引き出す側や運営する側の
監督や協会の成長が遅れてしまった。
このタイムラグはしょうがない。
どうしても生じるものだから。
だから「穴埋め」が必要なんです。
協会はそれでも日本人監督が
いいと言う。
冷静に考えても壁を突破するには
外国人監督によるプラスアルファが
必要なのは言うまでもない。
「結果を出したい」選手は
レベルが合わなくなっている
今現在の日本人監督や日本人の組織に
つきあってくれるのだろうか。
若干、ヤングケアラー的?な
においもしなくはない。
自分のやりたいことができず
監督や協会に合わせるような。
代表トップ選手たちが所属する
クラブの監督たちのなかには
レベルの高いなかで切磋琢磨した
一流の監督もいるだろうから。
もしかしたら日本人監督との
ギャップに悩んでいるかもしれない。
もっと勝ちたい。
高みを目指して
次の壁を突破したい。
単純に次のステージに行って
代表として勝ちたい選手たちの欲求。
差が開いてしまった監督・協会側。
若者のために、あえて身を引くのも
オトナ世代の大事な決断でもある。
たしかにプライドはズタズタだろう。
誰が一生懸命育てたと思ってんだと。
そんな非情なことして、捨てるのかと。
いや、そうじゃない。
それとこれとは別の話でしょ?
本筋は日本が強くなること。
プライドを超えた決断が必要な時期に
いま差し掛かっているだけ。
感謝は誰も忘れることはない。
選手たち自身にしてみたら
自分たちが、何より結果を出したい。
なら、よりレベルの高い人材を
監督や協会というポジションでも
求めていくのは自然なこと。
監督や協会を支え、成長を促す人材を
恥ずかしいと考えずに採用するのも
ひとつの手だと思う。
大人が何かを学ぶときには
カッコつけずにプライドを
捨てる覚悟が必要になる。
監督や協会の本当のプロ化は
痛みやプライドを乗り越えて、
まさにこれからなんだろうな。
そういう意味で今回の五輪では
選手と監督や協会とのあらゆる差が
改めてクローズアップされたと感じた。
そして本質的な日本人全体の育ち方に
問題の原因があると感じたんです。
よく試合ってのは生き物だといわれる。
特に試合時間が決まっている中で
行われる場合は
その試合時間内に相手を倒す
点数で上回るから勝つんですよね。
偉そうですけど(笑)
相手を倒すために
まずは自分の能力を高め
試合で自分の力を出せば
勝てるという側面があります。
これがいまの日本人が
過去の成績から分析して
大事だと、考えているやり方。
選手も監督も評論家らもよく口にする。
と同時に、より重要なことで
日本人が本気で考えて
向き合わなきゃならないのは
「自分の力を出せないときに
何をすべきか。」なんですよ。
数値化されない能力そのものを。
私たち日本人の多くの世代は
穴埋め問題ばっかりやって育った。
前半の内容のフリが効いている(笑)
計算式が決まっていて、
他の計算の仕方など
存在しないとすら思ってしまう。
これも前に書いたなぁ。
教育系のCMで
日本は1+1=〇
1+〇=2っていう
穴埋めの計算問題。
答えだけを出したり、
答えに合わせて必要な分だけを
正解として答える。
外国は〇+〇=5みたいな。
なんなら足す以外でもいいし。
最初からパターンを決めていない。
別のパターンや組み合わせの自由
視点をずらす、角度を変える。
そういう考え方を身につけたかどうか。
この影響が思いのほか、大きい。
日本の教育では正解は一つだと。
この数式に別のパターンが存在するとも
思わないで同じ数式を何度も刷り込む。
暗記するように、同じ答えにしか
反応できなくなってしまう原因だろう。
余白や余韻、余裕がつくれない。
いくら狭い国土とはいえ、心までも?
だから見たことないものに遭遇したり
思わぬアクシデントにあってしまうと
途端に手も足も出なくなってしまう。
私たちはこの事態に遭遇した瞬間に
無力化してしまう日本の選手やチームを
競技を問わずいくつも見てきた気がする。
これらが示唆するものこそ、
日本に足りないことのイメージ。
何もサッカーに限らず
仕事でも人生でもそうです。
自分がやってきたものしか
信じようとしない意識も高い。
たとえば、別で思いついたのは
サッカーじゃないけど
バスケのドリブルをいつも
体育館で練習していたとする。
ドリブルのテストがある。
一生懸命練習してきた。
そのイメージのまま
テストに臨みますよね。
しかし、テストの時間に
急にボールも違う素材で
外のグラウンドでやるから。
と言われたら?
私たちは練習どおりの成果を
想定内の場所で発揮できなくなる。
弾み方が変わる、小石があったりで
不規則にバウンドしたりもする。
途端に緊張感が増してしまい
普段ならしないミスを連発してしまう。
この結果に対していつもと
同じ環境なら自分のチカラを
出せたのに、と悔しがる。
あるいは普段どおりじゃない状況を
逃げ道を開拓して理由にしてしまう。
試合って自分の状況だけじゃない。
相手もやらせないように抵抗する。
その時どう打開していくか。
その答えはその時に合わせて
考えて実行するしかないんです。
明確な答えは、一切ない。
ワタクシが感じたのは、そこ。
たとえば試合中にうまくいかない。
それが相手が対策を取ってきたから
あるいは自分たちの選手の
疲労が激しいからだとすれば?
選手だけではどうしようもない
打開できない場面があるはずです。
監督の出番でしょ?
じゃあどうする?交代プランどおり
一定の時間がくるまで選手に任せ
選手たちにやらせて待つのか?
それとも刻一刻を争うなかで
早めに選手交代して流れを変えるのか。
職人肌、職人気質だ
ともいえる日本人。
だが、おそらくですけど
日本人は「極意」を知らない。
対戦した外国はなんとなく
極意を知っている気がする。
はっきりとした答えは持たないまでも
なんとなくアプローチの仕方を
体験してきて、感覚をつかんでいる。
ああすればこうなるだけではない
考えながら実行する、という極意を。
そこを意識して何事にも
取り組まないかぎり、日本は
いつまでも相手を上回るまでは
いかないのではないか。
日本人は前述した数式の
パターンどおりの心理が拭えない。
そのパターンに依存するから
「職人気質」が磨かれていって
究極の数式を探し続ける旅に出る。
(日本人は細かい作業が好き
じゃない側面もあると思う。
そうするしかできないというね。)
しかし、答えが状況によって
刻々と変わっていくときに
覚えた数式のパターンでは
打開できない場面に出くわす。
こうなった時、どうするか?
なんだと思います。
それが「極意」であると
イメージしているんですよ。
前述した外国の数式のように
小さい頃から考えることを
当たり前に自然にできるように
育っていく必要がある。
そうやって育った世代が
選手だけでなく
協会や監督の世代まで
浸透していかないかぎり
到達しえないのかもしれない。
日本の社会の根幹にあるのは
この「極意」に触れられない
教育や社会のシステム依存である
可能性が高いと感じます。
この極意を探る意識への変化こそ
あらゆる事象で閉塞感が漂う
日本においてヒントになる。
政治家のように決断できないまま
遅れをとることにならぬよう
協会には早め早めの英断が
求められているのではないだろうか。