コロナが猛威を奮っても
自然災害が起こるとしても
やるせない事件が起ころうとも。
五輪の活躍を伝えるニュースが
中心になると、霞んでしまう。
メディアの責任というのは
ものすごく大きく、そして難しい。
ニュースの優先度を決めるのは
やはり制作側なんだろうけど。
どうしてもコロナの無い五輪と
同じスタンス、通常営業になってる。
あの頃とはもう訳が違うんでね。
みんなが同じ欲しがり方をしている
と思うなよ?(笑)
危惧はしていたが難しい。
意図的に私たち自身が
五輪以外を意識していかないと
希薄になるように持っていかれる。
メディアは同じやり方を続ければ
やりやすいからそちらを選択する。
当然だろう、あとは少し寄り添う
フリをしてみせるだけでいいと。
やっぱり、いいニュースを
聞きたいという願望は私たちにも
このコロナ禍だからこそある。
そういう心理からも速報性を
欲しているだろうとして五輪の
プライオリティーも高めになる。
面白いことが無さ過ぎて
うまくいかずにストレスがたまる。
達成感も何もないし、できない。
国は何もかも後手を踏むばかり。
こちらが動こうともサポートは遅れ
旬やピークが過ぎたころに整いだす。
整ってもありつけるまでのハードルが
多すぎて、無数の脱落者を生む。
そういう日常から逃避行するような
解放されるような、夏まつり気分。
うれしいことを共有したい。
応援することで少し和らげたい。
選手も自分自身のためはもちろん
世間の空気を敏感に感じ取っている。
何か感動や楽しみを、その競技を通じて
届けられたらと、思ってくれている。
だが私たちとその選手の純粋な気持ちの
あいだには、メディアが横たわるのだ。
ジャマ。ジャマでしかなくなっている。
その仲介業者は不純物を混ぜ込んで
過去のパターンに戻そうとしてしまう。
頑張る選手の姿だけでいいときもある。
余計なことは言わないでくれ。
余計な演出やあおりはしないでくれ。
特に順位がついて
メダルという評価で
わかりやすく数値化できる。
次々とメダルの報告を
私たちは聞くことになる。
するとなんかわからないけど
そのリズムに乗るんです(笑)
今度は何の競技で誰が取った?
次の日はどんな競技があって
メダル期待される注目選手は?
そうやって得意のパターンに
持ち込もうとする。
メディア主導の日常化に誘い込む。
現実を忘れるような逃げ道を
不幸にも、つくってくれてしまう。
祭りのあとの寂しさをわかっていながら。
それは否定できないんだけど
だからこそ忘れそうな意識を
グッとつかまえておくというか。
引き締めの気持ちが必要になる。
みんな、なんだかんだ言っても
盛り上がるから、というのは事実。
ただ、残念なのは
他にどうしようもないから
あてがって楽しむ感じが強いこと。
他にやりようが無いときに
消去法でなんとなくあてがわれて
楽しませられているイメージで。
考えてみるとコレ、ゴマカシです。
ウヤムヤにして流されかけていて
知らず知らず風化させる意識を
植え付けられてしまう。
こんな時代だからこそと
世間も選手もなんとか自分が
できることをという純粋な気持ちを
見せてくれている。
しかし、全体としてうまくいくためには
個人個人が動かせるような環境が
整えられないまま、進むだけなんです。
気持ちはあっても進めないままで
滞留させられ、飼い慣らされて
淘汰されていくだけなんですよね。
なんとかしなきゃならない。
だけどいまは束の間を楽しめと。
ウマイかどうかわからない
酒を注がれて飲め飲めと促す。
またフリダシに、あるいは
後退するところまで戻されてしまう。
結局この繰り返しをしている。
なんとなくあてがわれて
なんとなく過去のパターンに
落としこまれて自分の気持ちだけが
宙ぶらりんにさせられて終わる。
私たち日本の社会は
どれだけ過去のパターンやシステムに
戻すチカラが強力に働くのだろうか。
戻すチカラに抗うには
やはりそれ以上のチカラを
集めて逆方向に引っ張るしか
方法はないのだろうか。
もっとみんなでうまくやる方法を
過去戻しのチカラを弱体化させないと
私たちの社会は旧態依然のまま
これからも変わらないのだろう。