かつての東京五輪。

三波春夫の東京五輪音頭。



世代じゃないワタクシも

なんらかの映像でみた程度。



「20世紀少年」なんかでも

作品内で描かれて覚えている人も。



人間の社会環境は

何年もかけ計画的に整え

入念に準備をする。



何があるかわからなくても

動き出していくのが当たり前で

止まれないしくみになっていった。



予定を大きく狂わされたことが

ない時代を生きてきた私たち。



大震災でさえ、全国規模ではない。

だから一部が「損傷」しても

不謹慎と言われながらも動かした。



それも全体を動かす宿命のように

活気を取り戻そうとそれぞれの

役割を全うしようとしてきた。



オリンピックが始まる、らしい。

オリンピックの顔と顔。

前回の東京五輪音頭の歌詞だ。



オリンピックを待ちわびる人々

観たことない光景にワクワクする人々

初めて見る国の人々や文化など

互いに顔を合わせる。



国籍、肌の色、習慣、文化。

当時の人々のすべての未知との遭遇を

ワクワクとドキドキをあらわすような。

その顔は喜びに満ちた笑顔だろう。



そして、2021年の東京。

どんな顔で迎えているのだろうか。



オリンピックどころじゃない。

その気持ちがどうしても上回る。



計画は大きく狂わされたが

ごり押しでこぎ着けてまでやりたい。

何事もなければ開催されるのだろう。



多くの人がテレビやネットを通じて

どうしても目にする機会が増える。



すべてを忘れていまは楽しもう?

いや、すべてを忘れることなどないし

すべてを忘れるほど夢中になったとしても

私たち自身が、忘れてはならない。



グッとつかんで心の奥に

流されないように、つなぎとめておこう。



テレビは先週あたりからもう

応援モード全開でアクセルを

ベタ踏みで、ふかしにふかす。

腕ぐるんぐるん回してる状態だ。



既に時代は五輪が個人にとって

最大のイベントではないのに。

昭和五輪と顔が違ってしまったのに。



もちろんコロナを忘れて

騒ぐことはない。

コロナを忘れて騒ぎたくなる

気持ちもわかる。

それでも私たちは・・・



今回のオリンピックの顔、みんな

どんな顔をしているのだろうか。



状況が変われば顔も変わってしまう。

喜んでいいのかどうかよくわからない。



そんな不安な大衆を見下ろす

コロナの発生源?の覇王の姿。

世紀初頭覇王は世界征服を目論む。



浅ましき歴史を繰り返す

太古からの人間の変わらぬ姿だろう。



まいてさしのべ。まいてさしのべ。

実にしたたかである。

この止まれない大国とも

向き合わなければならない。



それ以前、コロナ前の平時において

何も変えられない現実に日々苦しむなか

私たちは、どこかで身につけていた。



誰かを応援することで

自分の袋小路感を慰める行為を。

なんらかの代償なのだろう。



自分たちでは、やりようがなく

くすぶり続ける状況にさせられ

それでも、誰も何もできない。



その気持ちにスポーツやギャンブル

エンターテイメントなど

誰か他人や物事をあてがうようにして

解消させようとする。



ナグサメや他人の頑張りを

応援することでしか

私たちは抱えるモヤモヤを

解消できないようになった。

そこをまた、利用される。



怖いなぁと思うのはメディアの意図が

国民全体の雰囲気をつくってしまうこと。



事実はどうであれ、

メディアが流した情報を

私たち全体が無意識にそのまま

受け取り影響されてしまう。



その依存度というか、

依存する気持ちの純度が高めだ。



操作されやすい国民性も

相まって雰囲気をつくり

同調させられるスピードも速い。



流れはリーダーたちの思惑どおりに

音頭を取ろうとする方へ

私たちをいざなっていこうとする。

また、飲み込まれてしまうのだろうか。



何もかも忘れて五輪の音頭に

環境破壊で上昇し続ける温度のなか

狂乱する盛り上がりをみせるのか。



政治に無関心な国民に戻り

自分の守りを固めてあとは他人任せの

スタイルに戻っていく私たちを

政治家は見透かしているかのようだ。



少なくともこのコロナからの

1年半を忘れてしまわないように

心に刻む準備を、いま一度。



私たちは数分でも数時間でもいい。

この1年半を思い出してみるべきだ。

すべてを流し忘れてしまうまえに。