不測の事態が起こると
日本で暮らす私たちは
強力なリーダーシップを
国や行政に期待できない。
だからちょっとだけ
こちらから「手加減する」
という行動をとる。
そうですよね。
いまの私たちはかなり
手加減してあげてる状態。
バッチバチで国と国民が
自分の意思表示をして
ぶつけ合い議論をする
その手の熱量も発生しない。
あれ?クールジャパン戦略?
心の奥底で、くすぶるストレスを
延々と抱えながら互いがガマン。
エネルギーを放出し合って
前に進むというような
動きは、まず起こらない。
あきらめが上回っている感。
出るクイになりたくない。
いろいろ混じって、全部めんどくさい!
その心理のあらわれ。
出る杭になりたくない
という背景は何からだろう?
慎重になりすぎてしまう国民性が
このコロナ禍で、これまで以上に
進んでしまっている感じもする。
慎重に慎重を重ねる意識を
高めてしまう情報にあふれ
それでも誰も止めようともしない。
ゼロ意識というか、
ゼロにしないと安心できない。
100にしないと満足できない。
そして安全安心を担保する
社会システムへの精神的依存。
システムが追いつくまで待たされる。
不平不満があっても待つんです。
行動の前に不安や保身が
いつまでも立ちはだかる。
怖いという気持ちが
いろいろと知ることで
さらに増幅していく。
心はどこか萎縮していく。
その情報に合わせて
人間が横並びで制限する。
させようとする意識も高いし
守るべきだという圧力も高い。
この意識は諸外国と比較しても
やっぱり度が過ぎるくらい慎重だ。
ある程度の制限はわかるんです。
ただ何度も懸念してきた通り
日本はコロナ禍後の立て直しで
大きく遅れをとるでしょう。
その原因は心理的なマイナス思考。
意図的な守りの姿勢でも
どこか攻める気持ちに
フタをして守っている籠城心理。
実は心底、その心理を変えたい
とも思ってはいるんですよ。
でも出る杭になりたくないし
損なイメージを微塵もつけたくない。
だからこうしたらいいと
わかっていてもやらなくなる。
挙げ句、何らかのお墨付きが
得られない限りは動かなくなる。
一度動くと惰性で続けていき
急に止まれなくなるし、止めると怒る。
止まる判断も何かに依存してしまう。
これはもう誰が悪いとかの
問題じゃないでしょ?
私たちひとりひとりの課題。
その意識を高める動きを
意図的にリスクありきで
進もうとしないと
これから世界にますます
周回遅れにさせられてしまう。
一つのヒントがあるとすれば
国民の被保護意識から脱却するために
国がケツモチする担保を与えること。
いつまでも過保護な救済を
互いに求めたり与えたり
するのではなくてね。
国民の自主的動きを積極的に
国がサポートするから
やってみな?と促すこと。
いい加減を私たちが自分で獲得する。
程よい、適度な意味の「いいかげん」
私たちはその国民性からも
怠惰な、不確実な「いいかげん」に
勝手に、変換してしまう。
ココでしょ。絶対にココ。
丁寧に整えてやることを優先し
その結果0や100にならないと
大衆を動けなくしてしまった。
「いいかげん」とはおそらく
1から99に自分を置いて
物事を動かすことで得られる。
諸外国は国民も政治家などの
リーダーたちも1から99のあいだで
動き始めて社会全体もその動きに
呼応しながら協力者になっていく。
そんなイメージないですか?
私たちはどうでしょう。
1から99のあいだ何かが動いて
協力者に自主的になれていますか?
おそらくなれていませんよね。
確立されたメソッド、方法論で
担保されていないかぎり
動かそうとはしませんよね?
ココの意識をみんなで変えないと
文句ばっかり言っても何も変わらない。
リーダーたちに押しつけ完成品を
待つだけになってしまう。
整うまで待ってある程度の犠牲は
仕方ないと受け入れていく。
あとになって反省して、検証して
もっとやりようがあったとしても。
その反省が活かされるには
対応するシステムをつくるまで
0か100の完成と運用を
待たないといけない。
これでは遅い時が必ず訪れる。
数多の自然災害や事件事故の頻発。
私たちに必要なのは
待つ「てかげん」ではなく
「いいかげん」の獲得。
そろそろ人間の数を最大限に
活かしてもっと機能する意識を
持たないといけない。
さもないと自然にも世界各国にも
「いいように、いいかげんに」
やられてしまうだけだ。