オリンピックねぇ。
これだけ中止などの意見が
高まった状態でもやる?
となるとその後の影響とか
想像しないのかね。
明らかに強行した場合に
私たちはマイナス感情を
強く、強く抱いてしまいます。
どんなに結果が良い場面を
観られたとしても
それとこれは別の問題だから。
そのあたりをうやむやにする
クセが日本全体にはあるので
絶対に流されないでほしい。
最悪、結果が芳しくなかったら
完全にすべてがマイナスに
はたらくことは容易に想像がつく。
これだけ犠牲を払って開催
して「くれてしまっている」状態。
選手にも、かなりのプレッシャー。
せっかく開催したのに結果出せない。
当てつけのように責める人間が
必ず、出てくる。
そういうハケグチを
堂々と権利として行使するしか
大衆はあらがえない。
褒められたことではないけど
ストレスのハケグチを封じられた人。
想像してみてください。
人間性を疑うような責め方を
する流れが生まれるのは
それだけ窮屈な思いをしても
その発散ができないからでしょ?
そこで苦しむ人が潜在的に
既に何十年も同じ状態を強いられ
溢れかえって放置された状態。
そこに救いの手は無いことを
私たちはあきらめに近い覚悟をしてる。
妙な割りきりで誰かを責めることで
解消するしか方法がないからです。
ある程度は、わかると思います。
そういう人らに対しては
吐き出す解消を封じると
もっと良くないことが起こる。
いくらガマンしなれた私たちでも。
その状態の大衆を前にして
バッハは犠牲を払えと言う。
それは彼らの仕事は五輪を
成功させること、だから。
その背後にいる私たち
日本の国民のことは
日本の政府が考えるべきことだと。
そこは日本が自分たちでうまく
やってくれとしか思わないんです。
百歩譲ってそれが正しいとして
日本の政府はイエスの流れでは
ノーとは言えない国民性。
決断力が行方不明。
だから国民はノーであっても
政府がノーと言えないことが
そもそもの問題点なんです。
そしてもともとよくない
政治のイメージ。さらにガタ落ち。
ムダづかいになるという強迫観念。
ムリヤリゴーサインで後に引けない。
やっぱり戦争であとに引けなくなった
あの時と同じで変わっていない。
大衆の意見に耳を傾けない姿勢では
やっても、やらなくても選挙は負ける。
それはもう意識がズレているから。
五輪を成功させたからといって、
取り戻せる信頼や好感度ではないから。
国内の問題を棚上げした状態で
見えるとこだけキレイに見せる。
テレビの番組のセットの
裏側みたいな、すごい現実感。
昔のやり方は通用しない。
日本以外の国は、日本の国内の
問題は自分たちで解決してくれ。
そう思っている、当たり前だ。
しかし、ホスト国の日本という国は
「おもてなし」を自国民を
犠牲にしてまで優先してしまう国。
仕事だから仕方ないと
納得できたのは過去の話。
もう通用しませんよ。
仮にこの状態で成功したとしよう。
それなりに盛り上げに成功したと
伝えるやり方に持っていくとする。
彼ら政治家にとっての
五輪成功の意味は
選手や大衆とは全然違う。
そのことにも気づいていない。
感染防止をして世界各国に
感染も広がらず、国内にも
持ち込ませないこと。
政治家たちの腹は
コロナ禍で安心、安全に
国際的イベントを成功させた
という「箔をつけたい」だけ。
そのアピールの場として
政治的ミッションとして
達成してみせることが最大の目標。
そのために選手を閉じ込めて
制限を受け入れさせながら
半ば強制的に競技を実行させ
感染対策を徹底させるのだ。
これもおかしな話でしょ?
もう、選手のために開く
スポーツの祭典とは程遠い。
一体感はもう、どこにも無い。
そのスパイラルに入っている。
声、気持ち、体全体で喜びを表わす。
観衆がボルテージを上げて
呼応しながら一体となっていく。
その醍醐味も封じられてしまう。
だったら、やらなくてもいい。
私たちのオリンピックの成功とは
まったくベクトルが違う。
開催と運営上の結果を見てる。
椅子に腰かけたまま
背もたれに寄りかかり
選手を見ていない。
心の感じない拍手を送る。
記録が出るかどうか
だけを気にしてる。
有名選手が結果出すことだけを
気にしているのだ。
人気の国や選手が
結果をとにかく出してくれることを。
それもすべては大会が盛り上がるため。
もう「大会ファースト」すぎる。
開催さえ無事にできれば。
安心・安全さえ担保できれば。
どこにも平和やスポーツの要素が
ないんですよね。
人を見てない。
数字や大会全体の
盛り上がりを気にしてる。
それが当たり前?
当たり前じゃない。
開催する側は選手や大衆が
満足してこそ成功と
いえる話なんですよ。
このままではそれを
得られるはずもないのは
明白ではないか?
仕事として開催しようとすると
自分たちの仕事に瑕疵がないことを
優先してしまう。
選手や大衆には迷惑をかけたとしても。
私たちは数十年のあいだ、
オリンピックの成功とは
選手が晴れ舞台でプレーして
その頑張る選手の姿や姿勢に
感動をおぼえることである。
それがスポーツの祭典の
意味だと理解している。
スポーツ選手が死力を尽くし
最大限の努力が結実する場。
それがオリンピックの舞台であり
その連続を月日を重ねて
私たちは見てきたのだ。
その私たちの価値観とは
まったく違う方向にシフトしてる。
これってすごーくテンション下がる。
怒りよりもガッカリするんです。
これで、成功したでしょ?みんな。
みたいな満足気にアピールされると
最悪の気分になってしまうんですよね。
すべてが狂わされたのだ。
すべてが計算どおりには
いかなくなったのだ。
それでも前に進むべきだが
進み方を間違えているのを
そろそろ認めよう。
そこから始まるのだと思いますよ。