いまSNSを中心に
フォロー文化が
隆盛を極めていますね。
ワタクシは一切、手をつけないと
心に誓っているので
ない生活、ない人生の視点で
見えてくるものがあって。
うがった見方をすれば
後追い意識が強い。
もとから強かったが
より強化された。
後追いが強くなると
波が想定以上に大きくなる。
大きくなる波をみんなどこか
楽しんでいるフシもありそう。
リアクション文化の促進。
受け身体質の促進。
列に並ぶ意識が弊害を生む。
それを意図的に利用して
ビジネスにつなげることが
流行している状況ですからね。
受け身体質は相当、深刻です。
ホンネでは、発信者に
利用されていることにも
気づいている。
マジックのタネを
知りながら見てる。
でも波風立てずに
可もなく不可もなく
被害を受けたくない、が勝つ。
メディアもそれを利用して
賞賛と批判の声を取り上げて
閲覧へいざなう、やりたい放題。
誰かの発言に対しても
結果的に自分の意見を置いて
まずは他人がどんな意見を
持つのだろうと様子見してしまい
そっちに流されてしまう人が多い。
勝手に命名するなら
セカンドスタートの常習化。
これで若干、自分の主体的な
推進力にブレーキがかかっている。
これは客観的に見ると否めない。
これじゃなかなか新しい発想が
生まれないのもわかります。
そして自分で考えて思ったことが
全然言えていない、という矛盾も生む。
日本の教育システムの弊害かな。
間違ってもいいから手を挙げて
発言してみなさいと言われても
挙げなかったかつての中年世代は
この現象の中核なのかもしれない。
意見を言えなかった世代。
取り上げてもらえなかった世代。
たしかに全部に対応するのは
無理な時代だったけど。
後悔もあるんでしょう。
うまくやろうとしている人に
なんか腹が立つというか
ムカつくというか。
いまの自分を開放できているのが
うらやましいけど鼻につく
みたいな感覚もあるでしょう。
おそらくいろんなことを経て
もうこれ以上、失敗したくないのだ。
不利を受けたくない、マイナスを
残したくないという感情が先立つ。
守りの姿勢が強めになる。
下の世代もあまり失敗しない
恥をかかない人生を
送ってきているぶんだけ
事前にガードを強める意識が高い。
こうして全世代において
大多数は自分の意見を持つことを
難しくさせてる雰囲気がつくられた。
人をうまく活かせていないのは世の常だが
その人数がチリツモで多すぎて困り果て
どうにもならなくなってきている。
もうなんて言うんでしょうね。
道具は最先端なはずなのに
意識は古いままで使うみたいに。
かごの中で遊ぶしかないと
思うことしかしなくて
抜け出そうとしないようで。
その中で解決しようと、もがく。
失敗しても気にせず進むことが
社会全体で受け入れる土壌もないから
許されないみたいに解釈されて
なんとなく推進力を奪われている。
ひとりひとりが意見を表明できて
可視化されたんですけど、
監視下に置かれて意外に不自由。
意見を言うと火種が生まれ
不特定多数が薪をくべ合いながら
直ぐ火が大きくなってしまう。
とろ火のはずが、大火事になる。
預かりしらないところで
意図しないエネルギーをぶつけ合う。
一向に前には進まない。
難しい世の中で
意見を言いやすくなったぶんだけ
封殺されやすくもなっていて。
ジャマする意識がなくても
批判ととらえられて流れを
つくられて利用されている
そういう側面もありますね。
たぶん、みんな意見を言う場が
これまでなかったことの裏返し。
反動だとも思うんです。
若い頃遊んでなかった人が
遊びを覚えてひとまわりするように。
批判が楽しくて仕方ないんだろう。
ここから先、大事だなと思うのは
協力する姿勢をお互いに見せて
ホントに、協力することですね。
口先だけでなく、実際に協力して
人間は自分たちの社会環境を
どこまで改善できるのか。
あっちもこっちも立てようとして
どっちも立たずなわけでしょう?
全部、公的な機関に問題を上げて
あとは任せっきりにして決められたら
従うみたいなスタンスばかりで。
実際に社会を形成する人間は自分たち。
でも決めてもらって従って。
その中でうまくこなして争って。
それ以外もしてみようよ。
やってないだけで、やったら
できることたくさんあるでしょ。
誰かが出てきてそれに従って付いていく。
そのパターン以外を試したいですね。
フォローするというのは後方について
従っていく、ついていくばかりではない。
ブックマーク的な、しおりの感覚もある。
気に留めておいて、そこから
自分で考えて主体的なポジションで
後ろにつかず、横に並んで
一緒に動かしていく。
その方法もやってみないと。
フォローという言葉が良くないかもね。
どうしても後追い、2番手以降、
従的関係みたいなニュアンスが強くなる。
それが日本人のスタイルにマッチして
定着したんでしょうけどね。
その「流され感」も苦痛に感じないのは
まだ主体性が形成されていない証拠で。
武将のあとにゾロゾロとついていく。
これはもう、散々試した。
そっちが武将なら、こっちも武将だ。
武将同士が協力する道を試さないと。
武将のハイブリッドによって
まだ隠されている革新的なひらめきが
生まれる期待もあったりしますよ。
タテじゃなくヨコに並ぶ。
その流れをつくりたいなと
個人的には思いますね。