意図が伝わらずに、お互いに
理解する点まで至っていない。
そんな場面、ありますよね。
ウチには80歳近くになる母がいる。
母は以前よりもだんだんと
動けなくなっている自分を
自覚してもいるし、悔しいと言う。
やらなければならないこと
午前中にできていたことが、
午前中では終わらなくなる。
決して時間通りにキチッキチッと
やりたいタイプでもない。
ただ、身体的機能が衰えてくると
うまくいかない、予定通りに終わらない。
これはワタクシ自身も40代に入って
自覚することもある、十分わかる。
ただおそらく、それ以上の感覚だろう。
その衰えの現実といま、闘っている。
たまに、ボソッと漏らす声。
情けない・・・(溜息)
傍らで見ているとワタクシも
こうしたほうがいいんじゃない?
とアドバイスをしたくなる。
実際、その時点でそうしたほうが
良いと感じたから発言するんですが・・・
時と場合でそのタイミングを間違えると
本人(相手)にはやっぱりキツイ言葉に
聞こえてしまう。
時にはあえて叱咤して
奮起させる意図でハッパかける
そんな必要もあるんだけど。
わかってる、けどできないんだよと
ツライ状況を逆撫でする感じになり
相手も怒りの感情が高まってしまう。
やろうとしているときに言われると
カチンとくるとき、そのタイミング。
たまに必要以上に怒りのスイッチが入る。
勉強しようとしているとき
勉強しなさいと言われた
あの怒りの沸点。
どこか似ている。
結果的に、みんなオトナだからと
余計なことを言わなくなっていく。
干渉し合わなくなればトラブルも
ストレスもないと思うからだ。
しかし実はそうもならないのも
現実なんですよね。
過干渉にならない程度に
干渉することは意味があると思う。
そのさじ加減であって、0か100か
ではないのだから。
大事だなと思うようになったことの
ひとつなんですよね。
自分がいま、言われたらイヤだなと
思うことを言わないでおこう、
プラスで、それでももう一度
言うべき時に遠慮しないで言う、
というスタンス。
このいったん拒否されたからといって
このあとすべて拒否ではないんだと。
必ず差しのべるべき瞬間は
また訪れるんだから
その時はたとえまた拒否されても
差しのべる勇気を持っておこう。
そうしないと
あの時に助けていれば、
という後悔が
一生の後悔に変わってしまう。
なんにでも当てはまる考え方だが
一度のNO(いいえ)は未来永劫のNO
ではないんだよ
という意識を持つスタンス。
しつこいと言われようが
助けたい気持ちを
相手も感じないわけでは
ないのだから。
その時は感情的になっていて
うまく整理がつかない状況で
示した態度かもしれないでしょう?
だから拒否されてこちらが
イヤな思いをしたとしても、
また拒否されてイヤな思いを
するのだとしても。
もう一度、手を差しのべる意味は
必ずある、その意味や余地はある。
そう思っています。
だからお互いにイヤな思いを
したくないから、しないように
「イヤ指数」を0にするのではなくて。
互いが、イヤ指数を抱えながら
指数をも融通しあう関係の距離感を
取り続けるのが重要かなと思います。
相手も気持ちの整理がつかないとき
ってあるはずじゃないですか?
そして自分が相手の立場にいるとしたら
自分も感情的にその時は拒否したけど
もう一度差しのべられたとき、
あらためて、ありがたく感じたという
瞬間もあったはずです。
お互いにイヤな思いも共有しながら
それでももう一度差しのべる感覚。
これは親が自分にも子どもの頃に
してくれたことだとも思うんですよ。
大人になった自分が誰のおかげで
誰の助けでそこまでこれたのか。
そのもう一度差しのべるサポート、
自分も親に返していく、という意識を
忘れてしまっているのではないか?
8050問題においてちょっと大事な感覚。
むしろ離れて暮らす間隔のできた親子こそ。
難しいからこそ、大事な感覚ではないか。
本来の8050問題とは違う角度ですが
大事な感覚と間隔の距離感を
あらためて意識すべきだなと
思うのであります。
ちょっとクドイけどね(笑)