マンガとかアニメとか

 

アイドルとかゲームとか

 

あまりハマったものがない。

 

 

こういうのってなんとなく、

 

子どものころのもの。

 

どこかで卒業する瞬間があると

 

思っていた時代に育った。

 

 

三輪車じゃ恥ずかしいと思う

 

子どものころの気持ちと似てる。

 

 

三輪車が恥ずかしくなる。

 

乗っている自分が恥ずかしい。

 

それと同じように

 

世間もおそらくそうなるのだろうと

 

思っていたのだ。

 

 

しかし世間はそうでもなかった。

 

周りがまだ続けているから

 

自分もなんとなく続けてしまう。

 

 

続けられる環境があって

 

年々、おもしろく魅力的に

 

売り手も提供していく。

 

 

いまもそうだがビジネスが

 

つけこんでくるからだ。

 

 

周囲も自分も「できるなら」

 

続けたい気持ちもある。

 

 

あれ?続けて遊んでいて

 

いいの?大丈夫なの?って

 

流れができ始めてくる。

 

少し周囲のオトナの目を

 

気にしながら。

 

 

そのうち、有名人が

 

ゲームやアイドル、マンガなどに

 

興じるサマがメディア等を通じて

 

伝わり出して、共感し始めていく。

 

 

いいよね、面白いよね、楽しいよね。

 

むしろ同調を相手に求めることで

 

自分のなかで正当化させていくように。

 

 

続けているとまた夢中になっていく。

 

アイドルなんかはそれこそ、文字通り

 

卒業していくスタイルが多いのだが。

 

 

夢中になる人は卒業できないループ

 

どんどんそのスパイラルに。

 

いつしか、表向きでも正当化をした。

 

 

市民権を得たというのだろうか。

 

でもその市民権ってちょっと

 

質が違う気がするが。

 

 

いいオトナがマンガを読むなんて。

 

そんな風潮が、むかしはあったから。

 

けしからんと言う側の人間が

 

表向きは、多くいたのだ。

 

 

オトナになったら卒業していく。

 

子どものころのものを卒業していく。

 

それがオトナの階段みたいな。

 

 

次のステップに行きたい願望。

 

オトナになるために、あえて捨てる。

 

脱皮していく感覚なんだろうか(笑)

 

 

それがオトナ、みたいな感覚が

 

いまはノスタルジックに

 

感じる時代なんだろう。

 

 

逆に、いまは

 

子どものころのものを卒業せず

 

次のステップには

 

行きたくないというか

 

捨てたくない願望が台頭してきた。

 

 

むかしの人も表向きは

 

捨てたふりで、実は

 

子どものころのものを大事に

 

しまっていたのかもしれない。

 

 

年齢を重ねて家族ができて

 

養うために遮二無二なって働き

 

人の上に立ち、育てながら

 

自分を戒めてオトナになる。

 

 

子どもと変わらぬ部分を

 

残してしまうと

 

オトナとして、人として

 

何か認められない

 

みたいな雰囲気が

 

社会にはあったような気がする。

 

 

仕事ができてこなせるなら

 

プライベートはなんでもいい

 

みたいな、いまの風潮とは真逆。

 

 

役割をこなして、

 

迷惑をかけなければ

 

あとは自由、ではなかった。

 

 

いいんだよ、やめなくても。

 

やってても悪くないんだよ。

 

正当化フレーズが耳元で

 

エンドレスに入ってくる時代。

 

 

いつしか変わってしまった。

 

大事なステップだったのかもしれない。

 

 

かつては、仕事ができたら

 

なんでもいいわけではなく

 

人間としてあるいは

 

オトナとして成長する姿を

 

社会全体が後押しする

 

オトナへの儀式のような。

 

 

子どもの甘口のカレーを

 

卒業していくような。

 

 

いまもむかしも人が

 

誰かに倣っていく

 

真似していく構図は同じだ。

 

 

むかしも周囲がそうしてるから

 

自分たちもそうしようとしてた

 

でしょうし。

 

 

たぶんね、社会における役割が

 

変わっていくことで自然と

 

捨てることも大事なことだったのだ。

 

 

いつのまにか社会での役割も

 

ポジションが押し上げられて

 

変わっていくのが人間の社会。

 

 

かつての若手タレントが

 

大物呼ばわり、大御所呼ばわり。

 

 

人がポジションを上げていくとき、

 

自然とはがれ落ちるものをいまの時代は

 

はがれ落ちないように必死で

 

抱え込んで前に進もうとしている。

 

 

趣味を捨てて邁進していた時代。

 

趣味を捨てずに抱えたまま

 

オトナになってもいい時代。

 

 

そのことで大事な成長を

 

奪っているのだとしたら?

 

オトナの説得力をなんとなく

 

奪っているのだとしたら?

 

 

どちらも正当性がある。

 

しかし正当性の問題ではない。

 

 

子どもがオトナを見るとき

 

子どもが親や世間のオトナを

 

尊敬の眼差しで見づらくなった。

 

 

あんな偉そうなこと言って。

 

でも子どもみたいに

 

マンガ読んだり、ゲームしたり。

 

アイドルとかアニメとか夢中で。

 

 

パッと見でも、子どもがオトナに

 

ビビらないのも無理はない。

 

 

怒られないし、怒れない。

 

自分もやってるから。

 

 

ポジションが上がれば

 

親になったり立場が上になったりする。

 

所持していくものや振る舞い、

 

見られ方が変わってくるんです。

 

子どもと同じじゃいられない。

 

 

オトナの説得力ある立ち振舞い。

 

少なくとも上の70代以上の世代は

 

現役当時はいろいろ捨てていたはずだ。

 

 

ある程度、役目を終えてからまた

 

好きなものに思いを馳せていく。

 

 

捨てた期間にオトナは成長できたか。

 

いや、成長できたかできないかの

 

問題ではないのかもしれない。

 

 

捨てたことで新たな気づきも

 

経験できたはずである。

 

むしろ「無い人生の経験」ではないか。

 

 

無くても生きられる。

 

途切れたことも悪くはないと。

 

その視点は捨てなければ

 

得られない視点だろう。

 

 

ゲームもアニメも

 

アイドルもマンガも。

 

 

たぶん一度はどこかで捨てて

 

そこで見えてくる視点に

 

大事なことが含まれている。

 

 

そんな気がしますが、

 

いかがでしょうか?