例年どおりや、いつもならば。

 

この言葉をからめてコロナ前の

 

映像を見せるのはどうなんでしょう。

 

 

よくメディアで例年どおりならば

 

昨年のいまごろは、とかね。

 

いまのコロナ禍と

 

「なければいまごろ」

 

を対比して構成したがる。

 

 

でもあえて

 

昨年のいまごろはとか

 

コロナがなければというやり方は

 

しないほうがいいのではないか。

 

 

いつもどおりにしたいという気持ちを

 

結果的に強める効果が出てしまう。

 

つらいなぁという気持ちを

 

改めて感じさせてしまう効果もある。

 

 

人間ってやっぱり気持ちは一定じゃない。

 

がんばれる日もあれば、

 

そうでない日もある。

 

 

なんていうんでしょうね。

 

何事もなくいつもどおりだった。

 

コロナ前もいろいろあったけど、

 

昨年のいまごろは・・・

 

 

というかつての日常を

 

ちらつかせることによって

 

ちょっと気持ちが下がってしまう。

 

いまをポキッと、ちょっとだけ折る。

 

 

落ち込んでしまうような作用。

 

楽しい日常を思い出して、

 

いま現在に落胆してしまい

 

気持ちが下がるというか。

 

 

本当はコロナがなければ、いまごろ。

 

この思考にもっていく報道が多すぎる。

 

 

コロナ前が良かったと思わせる見せ方を

 

あえて、しなくてもいいんです。

 

 

いまをがんばる必要がある状況で、

 

コロナ前を羨むことで自分を慰める。

 

あえてその機会をメディアが

 

与え続ける必要も権利もないでしょ?

 

 

制作側のちょっとしたエゴというか

 

見せ場づくりの一環なんでしょうけど

 

そのパターン、ダメですよ。ほんとに。

 

 

いいと思ってるでしょ?(笑)

 

全ッ然、ダメですよ。サブいし。

 

大衆心理に不安を与えてるんですよね。

 

 

コロナ前を懐かしむことで、

 

妙に現在がつまらなくなるし、

 

現在に落胆してしまう。

 

 

がんばってもがんばってもという

 

マイナスなことを考えてしまう

 

キッカケにもなってしまうから。

 

 

テンションを落とすようなことをして

 

みんなでがんばりましょう、という。

 

このやり方、長年疑問だったんで(笑)

 

 

私たちは、がんばっています。

 

ただそのやり方がね。

 

 

なんでしょうね、

 

むかしいい頃と比較して

 

いったん、気持ち落ちした

 

底のところから

 

がんばろうって言う必要あります?

 

 

焼き肉をごはんにバウンドさせて

 

食べるみたいに。

 

 

いったん坂道下って低いところに

 

自分たちを落としてからがんばろう

 

って感じにならないですか?

 

いまより低くする意味ありますか?

 

 

コロナ前を懐かしむクッション。

 

余計に思い出してつらくなる人も

 

多いのではないかと思うんです。

 

 

あの頃を取り戻したくて

 

私たちはがんばるんだろうか。

 

もう違う気がするんですよ。

 

それだけじゃやっていけない。

 

 

たぶん、これまで同じパターンで

 

社会全体をメディアは励まそうと

 

見せ場づくりをしてきたんです。

 

 

見せ場づくりの一環とごっちゃにする。

 

そのやり方の残酷さをメディアには

 

感じてほしいですよね。

 

 

根本的に違う気がするんです。

 

そのパターンで乗り切れる試練じゃない。

 

感動の復活劇みたいな甘いもんじゃない。

 

 

犠牲を伴いながら、うしろを見ないで

 

前に進む腹積もりが必要なのではないか。

 

 

自虐的なんですかね?

 

あくまでも全体の士気を

 

下げないためには

 

良かったころ、平和だったころを

 

思い出して、取り戻そうとするのは

 

逆効果でしょ。

 

 

後ろ(過去)をあえて見ないで

 

前だけみていまより前に進むために

 

必要なチカラを出しましょうと

 

全体を向かわせるほうがいいのでは?