そろそろいろんなネット媒体での

 

コメント欄をすべて閉鎖してみたら

 

どうだろうか。

 

 

文句をつけたい場所があるから

 

文句をつけにくるのだと思う。

 

そこに山があるから、ではないが。

 

 

彼らはどこに向かうのだろう。

 

また食いつけるエサを探して、

 

放浪に出るのだろうか。

 

或いは、自分の存在意義を探しに。

 

 

自らが発信者となるのだろうか。

 

自らがアクションを起こす側に回るか、

 

誰かに反応するリアクションを続けるのか。

 

 

ネット上で行われている

 

この感情の行動、やりとり。

 

わかっていたことだが

 

近年、大きな波紋を呼ぶ原因と

 

なっているのは周知の事実。

 

 

おそらく、これまで積み上げてきた

 

あらゆるものを発揮できる場が、

 

人数に比して、少ないからだと思う。

 

 

社会には学んできたすべてのことを

 

発揮できる場が人数分もないんです。

 

それでもその場所しかないと群がり

 

争いをやめようとしないでしょ?

 

 

料理の仕方を学んできたけど

 

料理する場がない。

 

料理をしたとしても皿がない。

 

 

そして、料理をしたとしても

 

食べてもらえない。

 

お金を払ってもらえない。

 

 

自分の居場所を確保するゲーム。

 

いまはそうなんだろう。いや、

 

これまでもそうだったのかもしれない。

 

 

現実の社会ではその居場所がなく、

 

居場所と人間の数の比率が合わない。

 

居場所を年寄りたちが埋め尽くし、

 

元気な年寄りは死なないでしょ?(笑)

 

 

立派に人生を輝かせる場所を

 

つくれる人が希少になってきている。

 

狭いスペースで踊らなきゃならない。

 

 

人口が少ない戦後からの復興では

 

活躍できる居場所をつくれば

 

スムーズにコトが進められた時期だった。

 

 

生活を立て直し、家族をしあわせにする。

 

団塊世代が活躍の場と安定をものにしていく。

 

後続世代も、安定のイスを埋めていく。

 

 

そして団塊ジュニア世代。

 

幼少期からモノにあふれ、

 

より良いものをより良く(欲)しようと

 

選別の競争が始まり、苛烈していく。

 

 

しかし居場所のスペースはこれまでの

 

人間たちが占拠して動かなくなった。

 

元気でなかなかどいてくれない(笑)

 

 

幸か不幸か、その割を食ったのは

 

社会に出て同じ歩みを描いていた

 

団塊世代の息子や娘たちの世代だったのだ。

 

 

その後、居場所を見つけられなかった

 

ロスジェネ以降の世代は、迫られる。

 

 

年々レベルを前年より上げようとする

 

部活動のごとく、

 

選別基準を上げていくなかで

 

そこで勝ち残るしか道がないと・・・

 

 

当然、そこから漏れた人間がたまり続ける。

 

その人間たちは、自分が学んできたことを

 

発揮する場がないことに気づく。

 

 

しかし、世間は

 

いまのフォーマットを維持して

 

いまのアドバンテージを維持したまま、

 

進ませようとしてくる。

 

 

ここが数十年来の問題の根っこ。

 

 

居場所がないまま、

 

年齢だけが積み重なる。

 

もちろん途中でリストラ、倒産など

 

さまざまな理由で脱落してきた者たちも

 

加わり続け肥大化していく。

 

 

居場所がある連中を羨ましがるが、

 

居場所がない連中自身は、恨めしがる。

 

悔しいというか、むなしいというか。

 

 

だから本能的に居場所を求めてしまう。

 

もっとうまくやれる、自分でもやれるのに。

 

活躍できる場が欲しいのだと。

 

 

やり場のないエネルギーを批判や非難を

 

することで自分を慰めているようにも思う。

 

 

逆に言えば、その活躍したいエネルギーを

 

ムダ遣いしてきた社会という見方もできる。

 

そのエネルギーの輝かせ方次第では、

 

まだまだ可能性はあるのだから。

 

 

ネットのコメント欄を封鎖すること。

 

これで何かが変わる人がいると思う。

 

 

そこは動かない既存のシステムの中で、

 

かろうじて見つけた居場所だったのか。

 

 

でもわかってほしい。

 

どんなに吠えようが、

 

順位の変わらないイス。

 

 

もう気づいていて、

 

でもやりようがないと

 

ずいぶん前からわかっている。

 

そっちかもしれない。

 

 

終わりのない永遠の空間で

 

終わらない歌を歌い続ける。

 

 

掃きだめのようなところで

 

もがいていた自分に気づく。

 

 

私たちの見え方、捉え方ひとつで

 

わかることがある。

 

 

社会が既存のシステムを

 

脱していない現実が身の回りの

 

至るところにあるということ。

 

これもあれも、むかしの影響、名残り。

 

 

何かを変えないと

 

何も変わらないな。

 

多少、強引にでも。

 

 

ネットのコメント欄を封鎖しよう。

 

利用するのはやめよう。

 

利用されるのも、やめよう。

 

 

そうやって自分自身で道を

 

立てるしかない方向へ持っていく。

 

自主性、自立性、新しい居場所へ。

 

 

これまでの延長上にはもう、

 

居場所はつくれないのだから。

 

 

こんな時代にこそ、

 

やるべきかなと思いますね。

 

こんなコロナ禍にならなければ

 

やれなかったかもしれない。

 

 

いままで相当長い間、

 

見ないふりしてきたんですから。

 

そろそろ、歩みましょう。

 

 

国はそれを支援するほうが、

 

未来のためになりますよ、きっと。