「笑ってはいけない」は毎年、
何かしらの波紋を呼びますね。
波紋といっても視聴者が勝手に
思っていることであって。
それはある意味自然な反応ですし、
かといって合わせていくと、
尻すぼみするのは確実です。
よって、視聴者の意見をくみ取る必要は
ないと言っていいと思うんです。
いまの世論は多種多様で、
行き来しやすい。
動きがアチコチと素早く、
感情のまま展開する。
みんなその動きに、
勝手に影響を受けてしまう。
アレもダメ、コレもダメ。
その制限の中で作り手は
やっていくとなれば、窮屈になり
おのずと限界がみえてくる。
こういう業界の作り手の感覚って
やっぱりルールをいい意味で
裏切るからこそ、新しいものが生まれる。
コレって、何か閉塞感が漂う状況を
打開するときに必要な感覚ですよね。
ルールに縛られすぎると
発想自体が死んでしまうような。
冷静に考えれば、立ち止まったりすることで
冷静な判断ができることが多いんです。
全部、応える必要もないと。
動きながらアレコレと目の前に
ポンと渡されると、でもやっぱり
全部やらなきゃと思ってしまう。
伝わるかな(笑)
わんこそばを次々と入れられる感覚で
食べなきゃいけない決まりのように
逐一、反応してしまうんですよね。
視聴者は素直な反応をするんですよ。
スゴイ、キライ、面白い、面白くない。
エンタメやアートのような分野では、
作り手にしかわからない感覚も
あるはずだと思うんですね。
作り手に見えている感覚や世界観に、
視聴者サイドが「教わるように」
乗っかっていったイメージが
むかしのエンタメ業界だったと思う。
作り手は自分の感覚でつくる。
それを視聴者が楽しむ。
作り手の感覚には一歩引いて、
立ち入らない感覚もあった。
それで作り手の専門領域が
確保できていたような気もするんです。
もちろん批判や意見は様々ある。
しかし、作り手がつくりやすい環境を
守っていけなくなってきた。
平成の後半から現在にかけては、
視聴者サイドが自分の意見が
可視化されるツールが広まった。
そこで展開が変わってきたんです。
むかしは全国に可視化される
情報ツールがなかったでしょ?
電話や手紙で抗議したり
いろいろとあったんでしょうけど、
スケールが変わって簡単に可視化され
全国レベルで伝わるようになった。
情報が可視化されすぎて、
影響力が拡大して予想以上の
反響が「届いてしまう」んです。
すると、
作り手のほうが視聴者サイドに
寄り添う形が多くなり始めた。
自分(視聴者)の意見が反映されると
視聴者も、どんどん意見を言うようになる。
次第に「欲しいものを提供してくれ」と
視聴者が欲しがるものに、作り手側が
合わせるようになってきた。
たぶん、視聴者よりもその道の
エキスパートたちのほうが
一般的に、よく考えて知っている。
そして、こうしたいという世界観を
狙いをもってやっていて、
世間よりも、業界中心に
良いものと認められるだけで
かつては、やっていけた時代だった。
そこは作り手同士の感覚で
良い悪いが判断されていた。
業界に認められ、メディアを経て
お披露目されて、視聴者が受け取る。
視聴者はいまとくらべると、
少し「置いてけぼり」な状況だった。
その後、情報ツールの進化があって、
徐々に「置いてけぼり」な状況に
視聴者が不満に思うようになった。
主役感が満たされすぎたサービスに
囲まれすぎて主張が強くなってきた。
その後、個人が自分発信でエンタメも
つくれる動画配信サイトが主流となり
個人の主観から満たせるツールに
囲まれ出したんですよね。
視聴者サイドも作り手のポジションを
取るようになってきた。
自分が発信する楽しさ、面白さが
現実化するようになると、
メディアを中心とした作り手側とは
変な話、ライバル関係に
なってしまったのではないか。
これが面白い、これが素晴らしい。
その感覚が対決構図になっていく。
すると次第に主導権の取り合いに
なり始めてくる。
視聴者にみてもらってナンボの世界。
双方が主導権を握りたくなり、
次第に対立が深まった。
そんな感覚がないだろうか。
私たち視聴者もこんな時代に
生きるからこそいい意味での
譲り合いをしないとすべてが、
瓦解してしまうような気がします。
そして作り手側は、必要以上に
視聴者サイドにおもねる姿勢を取らず、
ちょっと我を貫くくらいのスタンスで
バランスを取る必要があるのかなと
思ったりもしますね。