コロナ不況を乗り切るために
シンプルに必要なアイデア。
カネ持ってる人々に消費を促すこと。
これに尽きるでしょ。
ただ、ひとすじ縄ではいかない
深い問題が潜んでいる。
よく聞く話では、
あの世にもっていけない
お金を死ぬまで貯めこみ、
使おうとしないのだと。
お金がないと不安、という気持ちが
お金がない人より、彼らは強まっている。
そう、世の中のお金持ちは
入ってくるアテがないかぎりは
必要以上には使わないんですよね。
預貯金を減らしたくない。
その気持ちが勝ってしまう。
もちろん、お金を持っているときの
心理的な安定はよくわかる。
しかし、お金があるのに遣わない
という状態を続けていくと
社会がどうなるのか。
わからないわけではあるまい。
それでのちに苦しむのは我が子や孫。
子や孫の、他者との人間関係にも影響する。
年寄りが守りに入るのは社会保障が
充実していないから?
それもあるが、
もっと大きな心理的負担は
損をすると考えてしまうから。
長生き「してしまう」世の中になったのは
もう、考えても仕方がない。
自分たちが出しても社会のために、
効率よく使われていない現状を
みんなが理解しているから。
結局、誰も助けてくれない。
自分で自分の環境を守るしかないと
そういうスパイラルに入っていく。
この守りに入る心理状態で
お金を使ってくれといっても、
使わないで「籠城作戦」に出るのは
もうわかりきったことでしょう。
大事なことはソノサキにある。
備蓄意識を高めて消費が減退して
お金を守っていた人だけが、
生活を守れる事態を招くだけ。
活性化の道は、いつまでも遠のく。
自分だけは助かりたい、というのは
誰も助けてくれないの裏返し。
かかる経費は社会保障で
これまで以上にカバーするんだと
国が決めたとして、
貯めこんだお金を使ってくれるか?
となるとそうも簡単にはいかないでしょう。
必要なはずの、私たち自身がひとりひとり
社会全体に貢献していく意識が、
備わっていないからだと思います。
自分たちが社会に貢献する意識を
持つことが前提にあって、
その人々の活動力が反映される
政策や道筋が示されていて初めて、
ひとりひとりの力が
活力をもって動き出す。
日本はこの意識をどこかに
捨ててしまったまま、進もうとする。
昔の人々が持っていた、
みんなのために、という意識。
この意識を受け継いでこなかった。
負荷だけが強さを増し続け、
逆風の中を踏ん張りながら、
なけなしの財産を握りしめて進む。
すぐそばで倒れる人を助けられず
見ないふりをしながら進む。
これらのテーマは政治家の仕事ですが、
もう一歩進ませて考えると
やっぱり、私たちの意識の問題です。
小手先のプランではなく、
長期的な視野で多少の犠牲を
受け入れながら進む覚悟を
国民に強いられない。
いつまでも食事の用意をしてくれる、
妻や母に当然のように頼って任せる。
いつか、自分でやらなきゃならなくなる。
それも考えたくないから、逃げる。
楽しいこと、ラクなこと、便利なこと。
逃げるように自分を安全なところに
置くことしかしなくなってしまった。
コロナ禍での行動や意識も、
同じ構図があるのだろうと思う。
自分たちのことでありながら、
自分たちが負担をしたくないことばかりを
要求し続け、満たそうとし続ける。
私たちもひとりひとりが、
意地になって自分のことを優先するだけでは
もう維持できない時代に
入っていることを自覚しながら、
受け入れて世代をつなぐ意識を
持たなければならないのだろうと思う。
もはや戦後ではない、と言われて
浮かれて浮ついていた気持ちが
昭和、平成と確実にあったと思う。
むかしの人が社会のため献身した姿勢には
せざるを得なかった「権利のなさ」もあった。
権利を認められ、生活環境を充実させて
利便性を享受した今生きる私たちの世代。
彼らの社会のために犠牲にしてきたからこその
いまの繁栄を当然のように謳歌していいのか。
浪費し続けて、自分のことばかり考えていいのか。
いま一度、現実と未来をみつめて
必要な犠牲、必要な姿勢、必要な覚悟。
いつまでも国におんぶにだっこで
自分を変えたくないだけでは、
もう前に進めない時代になっている。
もっと効果的にチカラがはたらくように
考えて試行錯誤しながら、
全体がその意識や姿勢をもつことが
大事になってくるのだろう。
年の暮れにこんなことを思った。
なんか共産圏や社会主義っぽくて
イヤだけど、そんなんじゃないんです(笑)
思想とか主義とか、そんなのどうでもいい。
そろそろ逃げずに、慰めに浸らずに
ケガを恐れずに前に進まなきゃならない。