近年はなんだろうな、
プロフェッショナルの
定義が怪しい、と感じる。
職業上の、専門家を
その道、その分野の
プロフェッショナルと言い始めた。
これを仮に「職プロ」と呼ぶ。
おそらく某国営放送の
「プロフェッショナル・仕事の流儀」
の影響が大きい。
自分たちもこの分野では専門家で
お金がとれるプロだよな
と、自認する方向へ
舵を切り始めたからだと思う。
プロに任せることで安心、確実を
求める世間の意向に沿うかたちで
世間の強い依存心を利用しながら、
その意識を世間に根付かせた。
彼らはこの問題なら
私たちにお任せを!と謳って
ビジネスに持ち込んだり、
わからない、難しいことは
我々専門家に任せて下さいという
持っていき方をして集客している。
彼らは解決したい問題を抱える人に
サービスを提供しようと目論む。
その職プロは、ひとつの枠の中で
Aができます、Bもできます、
Cもできますのでと謳い、
遠慮なく私たちにお任せください!
そう売り込む姿勢を強化していく。
当然、年々その定型業務を自分たちで
ブラッシュアップしてパターン化。
精度を高めて、制度化していく。
こうして出来上がったのが
近年、プロを謳う「職プロ」たちの
定義であり、正義のように形づくる。
でもこれ、プロなんだろうか?
これは仕事であって、プロではない。
プロと呼ぶことで何かを導き、
満たそうとしているだけだから。
ワタクシが思う、いや感じる
プロフェッショナルの定義は
その人個人にしか、できないこと。
職プロのようにAとBとCが
こなせるように定型化した業務の
ゼネラリストではない。
そことまったく違う道に
Dという芯のある道をつくれる人。
これこそホントのプロ、
Dで突き抜ける個性こそ
芯のある真のプロフェッショナル。
そう定義づけているんです。
おそらくプロフェッショナル・仕事の流儀
という番組自体も、
違いをつくれる独自性のある人を
プロフェッショナルと
定義しているのではないか。
それこそ、ワタクシがイメージとして
抱いているA~Cができる職プロでなく、
A~Cでは打開できないときに
違いをつくれる、Dができる人と
同じことだと思うんです。
笑いっていうのは全部が裏切り。
先日、ワイドナで松本が言っていた。
これこそ、プロとしての矜持でしょう。
無意識にA~Cの型を求めた世間と
A~Cをあえて裏切り、Dを持ってくるから
Dが際立ち、Dに面白さを感じて
ワクワクするんだと思います。
真のプロフェッショナルの矜持に、
自分たちと同じねらいに気づいたんだなと
迎えているのではないか。
世間のファーストタッチの感触と
相容れないからこそ食っていけると
信念を持って、確信しているんでしょう。
つまりDで突き抜けるからこそ、
プロとしてその世界に位置することが
できるんだというポジショニングを
はっきりと、意識的に狙い撃ちしていく。
ワタクシも前に書きましたが、
芸人さんもビジネスも定型では
最終的には勝ち切れず残れない。
既に誰かがやっていることでは。
勝ち残れないからこそ、いままでにない
Dを血眼で生み出し、探して形づくる。
そこをみんな目指している。
新しいイスや引き出しをつくる。
それこそが真のプロフェッショナルと
呼ぶべきだと感じる。
私たちもプロと称するならば、
ここを目指すべきではないか?
しかし、定型が染み付いた職プロと
比較しようと大衆心理は、してしまう。
それこそ「ミルクボーイバイアス」です。
つまり新しいジャンルに対して、
世間は案外、反応が鈍いんです。
無意識に定型こそ信頼に足るものと
考えて譲らないでしょう?
行き詰まりを迎えたときも
何か違いをつくれる人を、サンプルを
誰かが完成して汎用化するまでは、
GOサインを出そうとしないんです。
私たちはいま、どうですか?
明らかに定型では行き詰まりを
迎えていることに気づいている。
それでも誰かをずっと待ちながら、
ゼロイチが生まれるのを待ち、
誰かがまとめて汎用化してから
参考書に従ってやることに終始する。
異端に対して、感覚的に消極的姿勢が
勝ってしまい、タイミングを逃し続ける。
みんな後出しジャンケンしようとする。
おそらく世間に数多いる専門家たち。
その多くは既存の情報を収集して、
分析してまとめただけ、だけなんです。
彼らは分析の専門家で、職プロであり
真のプロフェッショナルとは、
呼べるような存在ではない。
こんなキツイ提言、いかがでしょうか(笑)