最近思うのは、もう笑えないよ

 

って評価の、押し付けスタンス。

 

 

最終結論みたいに、そこから先もう

 

変わらないみたいに言う。

 

 

なんなんでしょうね。

 

〇〇でもう笑えなくなった。

 

 

そこの意見は最悪、無くならない。

 

だとしても、合わせにいく必要もない。

 

 

イメージを勝手につくられて

 

意見をくみ取りすぎて、

 

やめてしまったり、差し替えたり。

 

 

そこの意見にいつまでも

 

引っ張られる流れは、

 

そろそろやめてもいいのでは?

 

 

ワタクシは何度も言っているけど(笑)

 

「クソマジメ学級委員タイプ」の

 

優等生的な意見を

 

そのままのみ込んで従うのは

 

もうやめたほうがいい。

 

 

ろくなことにならないし、

 

現にそうなってる。

 

 

大事なのは悪をちょっと残すバランス。

 

総合的に良いこと、悪いことを

 

両方抱えつつ、進むのがベストなんです。

 

 

なんか流されながら影響受けて、

 

妙な縮こまりをさせてしまう。

 

 

全部キレイにサッパリさせて、

 

不安要素を排除して気持ちいいんでしょうね。

 

でも挙げ句、味が無いと嘆く。

 

 

ケンカを仕掛けても

 

仲直りをしようとしないし(笑)

 

ただ、叩きつけて突き放す。

 

 

投げかけるのは自由です、もちろん。

 

だったら私たちも、必ずしも受け止めて

 

いちいち修正する必要はないでしょ?

 

 

ダメという反応に忖度するように

 

真に受けすぎて全体を委縮させていく。

 

 

直すことを求めて、挙げ句つまらないと

 

さじを投げる、嘆く。

 

子どもかと(笑)

 

 

全体を停滞させるばかりになる。

 

ある種の検閲まがいに対して

 

私たちは、少し逆らってでも曲げない

 

姿勢が必要だと思うんです。

 

 

曲げさせようとして意見を打ち、

 

曲げざるを得ないとして曲げてしまう。

 

 

しかし、曲げてしまうということは、

 

作り手の側が自らの否定をしてしまう、

 

ズタズタに切り裂く行為でしょ。

 

 

曲げろと投げかけられ、嘆かれても、

 

曲げてはいけないのだと思う。

 

 

大衆の意見にすべて合わせにいくのは

 

極めて危険な流れ。

 

この流れを止めないといけない。

 

 

人間が間違えやすいしくみや流れ。

 

すごく気づきづらいことなんですよね。

 

いまの時代に限らないことだと思うけれど。

 

 

悪いことが混じっていると

 

不快に感じるのは各自、基準がバラバラで

 

受け手が、分けて処理するのがスジ。

 

 

その本来のスタンスが崩されている。

 

明らかなのは、面白いことは

 

千差万別であって、良いことを

 

100%含むものではないこと。

 

 

面白いことには良いことも、

 

悪いことも含まれているから、

 

面白いんです。

 

 

裏切りがあるから面白くなる。

 

やっちゃダメを裏切ってこその面白さ。

 

 

教育に悪いとヒステリックに否定してきた

 

PTA的なマジメのルーツ。

 

その果てがこのギスギスした笑いのない世界。

 

楽しさなんか要らないのだろうか?

 

 

ここで意見を曲げてつまらないものにして

 

嘆かれようとも、曲げないことが大事。

 

 

受け手のチカラ不足にあえて、

 

付き合う必要はないし、

 

突っ跳ねてもいいんですよ。

 

 

本当に笑ってはいけない

 

にしてどうするよ?