ふざけられない世の中に
なっていくのかなぁ。
悪いほうに変わっていくのを
実感しながら何もできないのか。
文句を言いつつ、服従意識が高い。
いったい何をしたいのかといえば、
明確に答えられない。
ただ、もっと社会を良くしてくれと。
悪いことを無くせば、良くなると
思っているけど良くならないのが
世の常。
細部にこだわり一つ一つを
気持ちいいものに仕上げていきたがる。
大枠で全体を俯瞰でみると、
自分の周囲から不快なものを
排除したいだけで寄せたものは
社会という部屋の隅っこに追いやる。
大枠で考えると何も解決していない。
そこは自分の感覚で気づかないと
永遠に気づかないものなんでしょうね。
誰かが耳ざわりなことを言うと、
反論したり、反省させたり、排除したり。
こんなこと言うとアレだけど、
人間ってさ(笑)
周囲を快適にしすぎると
どこかで落とし穴に
ハマるようにできている。
そこを経験から知って危惧している
年配のオトナたちは
無秩序に突き進もうとする若者を
たしなめるのが役目だと思うんですけどね。
年配者がかつてないほど遠慮していて、
ビシッと言えぬ風潮に飼いならされている。
もちろん言われてすぐに言われたとおりに
やるのもダメなんですよ、きっと。
矛盾しているんだけど、そこは複雑で。
矛盾しているものを自分の中で、
うまく混ぜ合わせながら、
イイ味を出していく。
そういう熟成の仕方が必要なんだと思う。
ワタクシ自身もなんとなく
イメージしてる。
正しいことばかりでもダメで、
悪いことを柔軟に自分に馴染ませながら、
熟成させることで、味わい深くなる。
甘さを引き立てる塩。
善を引き立てる悪。
でも正しさのためにあてがう悪ではない。
悪を標的にしてぶつけるのではなくて。
悪をちょっと馴染ませながら、
正しさに悪を混ぜて、善に昇華させる。
正しさの角がとれて、まろやかに。
正しさだけをうたうとキツイ。
えぐみがどうしてもとれない。
口に苦みや不快感が残ったまま。
不快感を排除しようとしてるんだけど、
逆に不快感が際立つように感じるから
悪をより排除しようという志向にいく。
でも、逆なんだよなぁと思う。
善=正しさ+悪
のような感覚があって。
正しさだけでは善にならない気がする。
善=正しさ
にしようとしてるんだけど、
ニアリーイコールでもなくて。
鍋の灰汁(アク)のように
取り除けば良いのともちょっと違う。
複雑な調合で施される私たちの善。
もう少し、私たちには悪が欲しい。
この善の味を、レシピじゃなくて
感覚で伝え、感覚で私たちも感じ取る。
答えじゃなくて、応えのように。
明確にしたら逆に伝わらない感覚が、
カギなんじゃないかな。
感覚だけど(笑)