昨今はなんだか「答え」や「解答」は

 

至るところに転がっているのに、

 

「ヒント」自体は逆に少なくなった。

 

そんな気がしませんか?

 

 

もしかしたらヒント自体を私たちは

 

探さなくなっているのではないか。

 

 

そして、ヒントでなく直接に答えを

 

欲しがってばかりいるからではないか。

 

 

私たちの生活や人生においては、

 

本当は気づきによって生まれてくる

 

理解の仕方があるはずなんです。

 

 

何かのヒントを自分で見つけたり、

 

誰かにヒントになることを

 

教えてもらったり、体験したり。

 

 

ヒントは単体だと答えには結びつかない。

 

ヒントをもとに考えて、なんだったっけ?

 

と頭を使い出して、答えを自分で導く。

 

 

ヒントから答えに向かって動き出し

 

自分で手繰り寄せていくように、

 

正解を自分発の感覚で体得する。

 

このような思考をするルートがある。

 

 

ワタクシはこれが楽しいのに、と思う。

 

ドラマ「あなたの番です」なんかが

 

そうだったでしょ?「答え=原作ありき」

 

じゃなかったから、あれだけ夢中になった。

 

 

いまはすぐに答えを聞きたがったり、

 

答えを相手も直接に欲したりすることが

 

多くなっている気がしますね。

 

 

そして、ネット上にもあらゆる答えが

 

点在している気がします。

 

 

過程をスキップして結果という答えを

 

手に入れやすくなっているでしょ?

 

その反面、ヒントはヒントとして

 

私たちにはみえてきていない。

 

 

つまりこれがヒントですと出したところで

 

みんな、答えをすぐ欲しがるんです。

 

 

ということは、自分で考えて

 

答えにたどり着く、というプロセスを

 

経験できないってことですよね。

 

 

新しい発想や見落としていた考えや

 

アイデアみたいなものは、

 

自分で見つけるために産みの苦しみを

 

経ていないと得られない。

 

 

その過程を経たことでしか、

 

気づかないことがあり、

 

それが他者との違いになって

 

如実にあらわれてくる。

 

そして、その過程が楽しい。

 

 

おそらくこういうチャレンジが

 

世の中をちょっと、変えてゆく。

 

そのヒントはみえている。

 

 

誰かが示さなかった道を

 

ここにも道がある、通れるんですよと

 

自分で発見するよりほかないとき

 

新しいアイデアやひらめきが生まれる。

 

 

答え=知識、とするとき

 

何かに到達するステップがあるとすれば、

 

知識→知識→知識→知識=???

 

ここに新しい発見は、ほぼ無い。

 

 

ここにひとつでも「答え=知識」以外が

 

混じるとどうなるか?

 

仮に知識じゃないオリジナルの

 

「ひらめき」とすると、

 

 

知識→ひらめき→知識→知識=???

 

何か違いを生む予感が高まります。

 

 

たとえ知識から入っても、ひらめきを

 

一度経由した場合、そのあとに知識で

 

矢印を繋いでも、同じではなくなる。

 

 

知識はそれに対応する知識があるからこそ、

 

論理的に繋がり、答えにたどり着く。

 

 

おそらくその知識の連なりから出てくる

 

答えは既に、誰かが出している答え。

 

確実であるけれど、そこで止まっている。

 

 

何かを打開しようとするときは

 

知識の連なりに対して、

 

別のエッセンスが必要になってくる。

 

 

知識の連なりで導かれた結論は、

 

もう誰かが出している可能性が高い。

 

 

整理されて状態を結論づけただけで

 

そしてそれ以上どうすべきかの、

 

答えが出ていないということならば?

 

・・・ということですよね。

 

 

知識で導いて論理的に見解を示して、

 

実はこうなんですと発表したところで?

 

じゃあどうするの?っていう次が

 

出ていないことが多くないですか?

 

 

知識を待つ人はチャレンジができない。

 

チャレンジができない人は知識を待つ。

 

 

知識は答えと符合するが、

 

その答えだけでは不都合なまま。

 

何も変わっていかないのだと。

 

 

私たちもいま、こういうヒントを

 

得ているんですよね(笑)